なにか特殊な能力があるわけではない。勘も鋭い方じゃないし、むしろ鈍い。だからこれは偶然以外のなにものでもないはずで。だとすればこの先絶対に宝くじが当たることはないし、毎朝頭にカラスの糞を落とされるみたいなことが起こるに違いない。そう言い切れるほど、私は持ち合わせている全ての運をこの瞬間に使い果たした。



さん?どないしたん、まだ帰らへんの?」

通りがかりの担任に呼び止められ、あれやこれやと雑用を押し付けられては断りきれずに今に至る。ガーガー終わりの見えない大量のコピーが唸り続ける中、途方に暮れる私に声をかけたのは白石君だった。受験を控えた三年生は当然のように大多数が帰路についていて、ましてや今日一日大忙しだったはずの彼がこんな校舎の端だなんて辺鄙なところを通りかかるとは予想だにしておらず。テンポ良く返す言葉など何も用意していなかった私はえへへと誤魔化し程度に笑うしかなかった。何の答えにもなっていないのだが、困惑に満ちた表情が良い塩梅の含みをもたせて伝わったようで。

「また先生に捕まったん?自分よう捕まるな、先週もあったやろ」

以心伝心かと思えるほど全てを汲み取られ、思わず苦笑いすら消え去った。察しがいいにも程がある。まさか本当に……アホくさ。ただのクラスメイトにそんな究極の意思疎通など起こるわけがない。学校一のイケメンにあり得ない妄想をしてしまった、ごめんなさい。謝罪代わりの苦笑いが再び顔に張り付いた。


「呼び出しくらったん?」
「んーん、ちょっと音楽室覗いたら捕まってこのザマや」


まだまだ果てしなく残っているコピーの山は明日からの部活で使う譜面だ。私たちを送る会で演奏するらしい。なぜ送られる側の私がこんなことをしているのか、ほとほと謎である。後輩たちが知ったら泣かれるに違いない。こういうのはサプライズと相場が決まっている。


さん悪運強いな」
「なんなんやろ、先生と運命でもあるんかな」
「四十過ぎのおっさんとあってどないすんねん」
「いやそんなん私も御免や」


顧問が担任になった時点で嫌な予感はしていたが、何かと頼まれごとをすることが多かった。いい加減慣れてはいるけれど、さすがに内容にはもう少し気を使うべきだろう。『3月9日』はいい曲である。いい曲ではあるが、当日まで隠してほしかった。新鮮な感動を返してほしい。しかしこれもまた一連の運の悪さというか天罰というか。身から出た錆と思えば仕方がないのである。

「せやけど先生もさんに頼り過ぎや、他にも残っとる奴おったやろ」

小さなため息と共に置かれた鞄は白石君がこのままここに居座る証拠である。喜ぶべき展開かもしれないが、それはあくまで自分が望み思い描いた場面ならばの話だ。そんな都合のいいことばかり起こらない。無計画で丸腰の私を追い詰めるように先行き不透明な時間は進んでいく。楽器やら何やらがごちゃごちゃと散在している音楽準備室は案外と余裕がない。とくにコピー機周辺は尚更で、一歩進むだけであっという間に距離が縮まってしまう。幅を取りすぎているコピー機に寄りかかる私と白石君は手を伸ばせば届くほど近いが、もちろん私たちはそんな触れ合いをするような関係ではない。伸ばしたいという気持ちだけは十二分にあるけれど、ただのクラスメイトはそんなことなどしない。身の程は知っている。


「まぁ私推薦組やから、実際暇人やし」
「そんなん俺もやで?」
「白石君はまだテニス部に顔出したり忙しいからやろ」
「こんなん忙しいうちに入らへんわ」


先ほど置かれた鞄の隣にどっしりと鎮座するラケットバッグ。引退したはずなのに、最近は週に二、三回は部活に顔を出していると言っていた。なんでも新部長の二年生が怪我をしたらしい。大した程度では無かったものの、これから部を背負っていく大切な存在である。大事をとって休ませるためにも白石君が時折練習を見ることになった。白石君はテニスの強い高校に推薦が決まっているから、身体を鈍らせないためにもちょうど良い練習になるらしい。そして。それは私のような臆病者にとってもありがたく好都合な話であった。

「今日も白石君部活出てたんやろ?偉いなあ」

コピーし終えた束を取り出しながら、さり気なく、さり気なく。なんとも白々しい台詞だ。自分で聞いて呆れる。ほんの数十分前までテニスコートを穴が開くほど見つめていたくせに。そもそもここに来たのもそのためだ。音楽室のすぐ横にある突き当りの窓からはテニスコートを望むことができる。隠れたベストポジションは誰にも明かすことなくずっと独り占めしてきた。だからこの何かと押し付けられる雑用も、きっとそんな白石君の姿をこっそり盗み見ていた天罰に違いない。


「せやけどそれももう終いや、来週から財前も復活出来るようなったし」
「そうなん?それは何よりやね」
「これで正真正銘の引退や」


天罰は続く。放課後の密かな楽しみは終わりを告げた。これからどうやって白石君を見つめればいいのだ。私の地味な青春などこのまま報われることが無くて当然で、望みをかけた最後の席替えすら不発に終わってしまったというのに。もちろん隣だなんて贅沢は言わない、後ろの席になりたかった。合法的に白石君を見つめられるなら後ろ姿でも何でも良かった。我ながら気持ちが悪い。こうやって面と向かえば普通に会話も出来るのに、恋心だけはいつまでたっても堂々と前を向くことが出来なかった。だって相手は白石君だ。こんな陰気な女が告白などできるはずもなく、かといって何もしないでいられるほど小さな想いでもなく。


さんは高校でも吹奏楽部入るんやろ?」
「うん、N女の吹奏楽部結構強いからそのつもりやで」
「N女か、結構こっから遠いから大変やな」


私は隣町の女子高に推薦が決まっている。本当は白石君と同じ高校に行きたかったけれど、文武両道の進学校は想像以上の難関で私の中途半端な成績では到底無理な話だった。卒業まであと一ヶ月と少し。この際義理でもなんでもいい、どんな形であれ少しでも昇華させることができれば悔いは残らないだろう。最後のバレンタインにすべてを賭けるべく用意したはずの少し高級なチョコレートは、今も鞄の中でひっそりと息を潜めている。計画が狂ったのは昼休みのことだ。



旧校舎の北階段は図書室への近道だった。借りていた本の返却を終えた帰り道。今日に限ってはこの寒くて薄暗い踊り場も絶好の告白場所になることを私はもっと考えるべきだった。ツヤツヤのストレートヘアに短すぎないスカート、すらりと伸びた華奢な脚。あれは隣のクラスの女子だ。あまり良く見えないけれど、手にしている小さな箱に施されたラッピングも手作りを彷彿させるシンプルで控えめなもの。清楚で可愛らしい彼女の雰囲気にぴったりだ。敵ながらあっぱれ、勝ち目なんてさらさらない。青ざめながら素直に負けを認めた私はすごすごとその場を立ち去ろうとした。予想外の白石君の返事を聞くまでは。

――ありがとう、でも貰われへんわ

続く言葉は全てを奈落の底に突き落とした。ああ、そうか。そういうことか。


さん、これもう紙無いんちゃう?」
「へ?…あ、ああ、ほんまや」


用紙切れを知らせる警告音がけたたましく鳴り響く。目の前の不快な音よりも数時間前の記憶に気を取られていた。新しい紙はどこだっただろうか。キョロキョロと辺りを見回す。お目当ての物は先生の机の下だ、本当は知っている。無駄な時間稼ぎのような真似をしても何かが得られるわけではない。少し時間が欲しかっただけなのだ。再びざわめいてしまった心を落ち着かせるための。

「あ、あそこちゃう?ほら、先生の机の下の箱」

白石君が正解の方を指した。ほんまや、ありがとう。数歩の小走りで向かった先、しゃがみ込む私の視線の端で捉えられたのは違和感のある鮮やかな色彩。コピー用紙を引きずり出しながら、視線だけをスライドさせていく。白石君の鞄。ラケットバック。その閉まりきらない隙間から僅かに顔を覗かせる、綺麗な桜色のラッピング。

――今年は好きな子だけて決めとるから

だから。これは。
ぽたぽたと堪えきれないものが零れ落ちる。「さん、」と呼ぶ声はするのだが、当然振り向くことなど出来ない。なに?と絞り出した声は震えていなかっただろうか。包装を破る音がかき消してくれていることを願いながら、雑に剥いたコピー用紙を運ぶ姿は不自然に俯いたまま。

「どないしたん?」

覗き込む顔と目が合った。バサバサと無残な音を立てながら真っ白な束が滑り落ちる。 あー、えらいこっちゃ。小さく笑いながら拾い集める白石からは閉口や辟易としたものは無く。拾い上げたコピー用紙と共に再び向けられた笑顔は、迷子の子供を案ずるような優しいもので。溢れ出す羞恥心に涙は止まってくれないけれど、こうして痛いほど大きく揺さぶられる心が何よりの証拠なのだ。


「虫でもおったんか?」
「や、そうやなくて…」
「紙で手切ったん?」
「…ちゃう…」


もっと無理にでも明るく振舞えば気付かれなかったかもしれない。それこそ「虫がいた」と騒げば誤魔化せたかもしれないのに。ここまでさも意味あり気に泣き続けて、今更そんな策は通用しない、残された道は事実をそのまま伝えることのみだ。覚悟を決めたなんて潔いものではない。何度目かわからない溜息のように情けない声がぽとりと落ちた。


「…チョコ…」
「チョコ?」


桜色の元凶を恨めしそうに見つめる私に気が付いた白石君は「あぁ、あれな」とばつが悪そうな笑みを浮かべた。笑う理由がわからない、彼女自慢でもされるんだろうか。勝手に怯える私を余所に、白石君は好きな子から貰ったにしては少し雑に思える手つきでラケットバックからそれを取り出すと、「ここ、読んでみ」と綺麗な字で書かれた宛名のシールを指した。

「……Dear 蔵リン…?」

こんな呼称を使う人物を私は一人しか知らない。脳裏に浮かぶ、聡明な坊主頭。

「これは小春からや」
「金色、君?」
「さすがに突っ返すわけにいかへんからな」


女子よりも女子らしい金色君のこと、きっと甲斐甲斐しくテニス部みんなに用意したのだろう。それが例の制約に値しないことは明らかだ。桜色のチョイスも言われてみれば確かに彼らしいものである。繋がっていく明るい兆しに思わず口元が緩むが、慌ててきつく結び直す。まだ何も始まっていないし終わってもいない。その証拠に、大きく開かれたラケットバッグから見受けられるのはもうラケットとシューズのみだ。


「今年はぽんぽん受け取るの止めよ思うててんけど、」
「……けど?」
「部活中に来る子もおるし、せやけどさん上から見とるし、もうパニックや」


呑気な世間話にも似た口調に紛れ、知らん顔で通り抜けようとする事実。おいちょっと待て、今なんて言った。江藤さん上から見とるし。見とるし?それは、まさか。まさか。


「え、え、え…き、気付いてたん…?」
「あんな熱い視線気付かへんってよっぽどやで」


再び雪崩を引き起こしたコピー用紙の被害は、もう拾う気すら起きないほど広範囲に及んだ。最早そんなことはどうでもいい。辛うじて手元に残った数枚を握り締めながら、変な汗は噴き出るし寒気すらする。顔色はもう何色なのか想像もつかない。


「あああ……その、ごめん、めっちゃキモイ真似して、その、あの、」
「ええからもう泣かんといて、好きな子に泣かれるとかさすがにきついわ」


衝撃は一瞬で涙が止まるほど強く、声も出ない。自分の耳を疑い尽くし、恐る恐る上げた視線の先には私に負けないくらい耳を赤く染めた白石君がいた。

「今年はさんもくれるんちゃうかって…なんや俺もごっつ期待してしもたんやけど」

泳ぐ視線は空を見つめ、白く埋まった床を捉え。少しずつ、少しずつ。軌道に乗り、目標を定めていく。

「他の女子の全部断って、気ぃついたら放課後やし」

めっちゃ焦ったわ。
困ったようにはにかむ白石君とやっと目が合った。

「せやけどまた窓んとこさんおったから、来てしもうた」


夢でも見ているのだろうか。たった一人にだけ許された席は、私の為のものらしい。叩きつけるような激しい鼓動は全てを掬ってしまいそうで、見つめる瞳に思わずぐっと力を込めた。 白石君が私のチョコを待っていてくれた。貰えなくて焦ってくれた。私を見つけて会いに来てくれた。もうそれだけで十分過ぎる、私には抱えきれないほどの幸運だけど。もう少しだけ、あと少しだけ。なけなしの一ミリの運でも構わない。お願いだから、残っていて。


「…白石君に…渡したいものが、あるんやけど」


あとは勇気で、補うから。










(19.2.28)


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