放課後の図書室は一定時間を過ぎると暖房が付いているときと切られている時がある。前者はまだ普通に開館している時、後者は司書の先生や図書委員が不在で早めに閉館されている時。職員室に行けば鍵は開けてもらえるし本を返却することも可能だが、そこまでする生徒はあまりいない。今日はちょうどその後者に該当していた。 しかし私の手元には今日が返却期限の本が2冊ある。過去2度延滞している私は既にイエローカードが出ていてもう後がない。担任か誰かにお願いして鍵を開けてもらおうと職員室へ向かうと、先客がいた。先生から受け取っている鍵には緑色のプレートが付いていて、図書委員の私はそれが図書室のものであることを知っている。通常生徒に渡すことはなく図書室まで同行するのが決まりなのだが、信頼に値する生徒ならばその必要はないと判断されたのだろう。


「やーなぎ」
か、どうした」
「図書室行くの?」
「ああ、今日期限のものを返しそびれていてな」
「奇遇だね、私もついうっかり」


手にしていた本を掲げて見せると、柳は少し意外そうな顔でそれを手に取る。私が好んで読むのはファンタジーやSFもので、現実味のあるものを読むことは少ない。パラパラと速読にしても速すぎるテンポで目を通し、柳はゆっくりと歩き出した。反応を見る限り、こういう本にあまり興味は無いらしい。


がミステリーものとは珍しいな」
「んーなんか目に入ったから借りてみた」
「『行動心理捜査官』…面白かったか?」
「なんかね、行動心理学に基づいて捜査をする女刑事の話だった」
「テレビドラマによくありそうな話だな」
「柳ってドラマ観るの?めっちゃ意外」
「いや俺は観ない、姉がたまに観ているのを目にする程度だ」


テレビをほとんど見ない柳との会話は決まって本の感想か部活の話だ。好きな本のジャンルも違えば、テニス部と剣道部じゃ共通点はあまり無いのだけれど。しいて挙げるならお互い副部長が異常に厳しいとかそんなところだろうか。まあ要するに、私たちには2年生の時同じクラスだったということ以外あまり繋がりがない。こうして話す機会すら、実は貴重なものだったりする。図書委員にさえなればチャンスも増えると思っていたのに、職権乱用の目論見は空しくも外れてしまった。今春赴任してきた司書の先生はことさら私語に厳しく、カウンターにおいてもそのルールは厳格に守られている。控えめな声量による必要最低限の会話しか私たちには許されなかった。生徒数がバカみたいに多いマンモス校だ、部活も引退してしまったしすれ違うだけでも運が必要だというのに。


「こないだ柳がテニスしてるとこ久々に見たよ」
「最近はあまり部活にも顔を出していないからな」
「私も全然」
「そうか、はよく後輩の面倒を見るタイプかと思っていたが」
「それがさ、副部長が今でも熱心に指導してるんだけど…どうも後輩からはウザがられてるみたいで」
「副部長…小山田か、気持ちはわかるがいつまでも3年生が出過ぎては支障をきたすだろう」
「そうなんだよね、でも小山田君あんまり理解してくれなくてさぁ」
「相変わらずお前も苦労しているようだな」


いつも注目の的だったテニス部とは似ても似つかないけれど、剣道部も負けず劣らずの個性派ぞろいで。その中でも多少常識的…いや、凡庸な存在だった私はなにかと面倒な役割を担いがちであることを柳も知っている。いい加減やってられるか!と年に数回ブチ切れては副部長相手にやり合っている様子を何度も目撃されているので、そんな粗雑な要素を持ち合わせている私が淡い期待を抱くなんて身分不相応だという自覚はある。それでも試合に負けて気落ちしていれば声をかけてくれる、面白かった本があれば教えてくれる。一向に変わらない柳の態度は良い友人以上の何かを想像させることを止めさせてくれない。現実は一歩踏み込む勇気も無いくせに、いい加減諦めが悪いと叱って欲しい。職員室から図書室がもう少し遠かったら良かった、その程度の望みしか抱けないほど私と柳には多分まだ距離がある。と思う。




「うっわ!寒っ!」


図書室はもう随分と前に暖房が切られていたのだろう、すっかり暖気は消え失せていた。どんどん冷えて行く指先をどうにかしようと忙しなく動かす私を、柳は「随分と寒そうだな」と揶揄う。このまま真っすぐ帰るつもりだった私はしっかりとコートを着込んでいるけれど、柳はまだ制服姿のままだ。そういうお前こそ寒くないのかと問いたいところだが、しゃんと伸びたままの背筋を見る限り愚問なのだろう。私とは鍛え方が違うとかそんなところだろうか。パチン、パチン、と点けられていく電気を追うように進むと、柳は慣れた仕草でカウンターの中に入っていく。


「それほんとは怒られるやつだからね、生徒会といえど立ち入り禁止だよ」
「担任が同行しないのだから仕方ないだろう」
「あの先生案外適当なんだね…」
「それに今日はがいるから規約違反にもあたらない」
「…見なかったことにしとく」
「それは助かるな」
「どうせまた他の本借りるんでしょ?私やっとくから行ってきなよ」
「ああ、では任せてもいいか」


1冊私に託した柳は少し早い足取りで奥の方の本棚を目指し消えて行った。あっちは確か、哲学とか宗教だっただろうか、柳がそういったジャンルを読んでいた記憶はあまりないが。ストーカーめいた考えはしまい込みさっさと任された仕事にとりかかっても、本に貼られたバーコードをピッとする程度の簡単な作業はあっという間に終わってしまう。手持無沙汰で柳の借りていた本をパラパラと開いてみたけれど、流し見程度では到底理解できないほど私には難解なものだった。それでも柳の頭の中を少し覗いているような気がしてなんだか嬉しくなってしまう。今日は何を借りるんだろう。何かしらの判断において迷うイメージがない柳だから、次に借りる目星などとっくにつけていると思っていたのに。何分待っても戻ってこない様子に心配というよりも興味が湧いて、席を立とうとするそのタイミングを見計らったかのように柳は1冊の本を手に戻ってきた。装丁を見る限り、小説の類ではなさそうだ。


「すまない、遅くなった」
「何か探してたの?」
「ああ、これだ」
「『しぐさの心理学』…さっきの気になったの?」
「心理学はメンタルトレーニングやコーチングをする上で学んで損はないからな」
「柳なら基礎みたいなものはすでに知ってそうだけど」
「多少かじった程度で習得出来るほど簡単なものではないだろう」


だからこそさらに学ぶ必要がある、らしい。例えば彼がこのまま心理学に本格的な興味を持てば他を圧倒するほどの専門家になるだろうし、途中でイルカの生態に惹かれればその道さえもあっという間に突き進んでしまうかもれない。きっと柳はどの分野においても秀でた存在になるべくしてなるのだろう。そんな聡明さは彼の魅力のひとつでもあり、私が二の足を踏み続けている理由でもある。私はどんなに勉強しても学年200番程度が精一杯だし、読書も読みやすい小説しか読めない。剣道部は県大会にすら進めなかった。自分と誰かを比べたところで意味がないことはわかっている。しかしそれが好きな男子とあらば話は別だ。どんな女の子なら彼にふさわしいのだろう、そう考えれば考えるほど自分とはかけ離れた人物像が彼の心を射止める気がしてしまうのだ。


「お前もこれを機に学んでみたらどうだ、剣道にも役立つだろう」
「うーん、でも高等部でも剣道やるか決めてないからなあ」
「小山田の面倒に疲れたか?」
「あはは違う違う、小山田君あぁ見えて外部受験だし」
「そういえばそうだったな」
「私特別強いわけじゃないからさ、試合になると全然勝てないし」
「そうか?剣に迷いがないと弦一郎が褒めていたぞ」
「真田くんが?!まじか」
「俺もの剣道には惹かれるものがある」


私の気持ちを知ってか知らずか、柳は時々さらりと心に触れることを言う。勘違いしようと思えばいくらでも出来るし、地に足をつけてしっかりと現実に踏み止まることも出来る。どう捉えるかはお前次第だと言われているようで、そんな勘違いなど致しませんよとばかりに後ずさりする癖がついていた。三歩進んで二歩下がる、更にもう一歩下がる。ありがとうと笑顔で受け取ればいいだけなのに、こんな時は決まって視線を逸らしてしまう。自信の無さと表れだと、借りた小説の一節にもあった気がする。視界に静かに入り込む本を受け取り、今更ながら顔を上げた。嬉しいのなら、笑えばいい。それだけじゃないか。


「そこまで言われたら続けるしか無くなっちゃうじゃん」
「妥当な判断だな」
「それほどセンスがあるとは思えないけどね」
「『才能の差は小さいが努力の差は大きい、継続の差はもっと大きい』」
「なにそれ誰かの名言?」
「作者不詳のな」


まるで柳自身の言葉のように、それは簡単に私の迷いを吹き飛ばした。どこかの誰かさんには申し訳ないけれど、これが例えば顧問から言われたものならきっと右から左へ聞き流してしまっていたと思う。ずっと誰かに背中を押してもらいたかったとはいえ、自分の愚かなまでの単純ぶりが恥ずかしい。もうとっくに読み込まれているバーコードを何度も確認しながら「じゃあ、今度高等部の剣道部覗いて来ようかな」とついでのような決意表明をすると、 柳はどこか満足気な笑みを浮かべ僅かに空気を揺らした。それがどうも意味あり気に思えてしまって、なに?と思わず問う私に柳は変わらぬ笑みを返すだけ。そっちにばかり気を取られ、手元も見ずに返した本は見当はずれなところで私の手から離れるとゴトンと想像以上に大きな音をたてながら床に落ちた。


「あ、ごめん!」
「いや大丈夫だ」


思わず立ち上がる私を制して、柳は自ら拾おうと姿勢を低くした。普段綺麗に伸びているはずの彼の背中には少し不自然な弧が描かれる。襟からのぞく首筋は見慣れない無防備さも相まって妙に悪戯心を誘った。冷えた指先で油断しきった首筋にそっと触れると、微かに上がった肩が控えめではあるが確かに驚きを示した。私ならひゃあ!などと間抜けな奇声を上げていそうなものだけど。


「何の真似だ」
「あ、ごめん、思わず」
「随分と突拍子もない行動だな」
「隙あり!と思いまして…」
「そうか、それは一本取られたな」


薄く微笑まれ、改めて彼の端正な顔立ちを目の当たりにした。遠くから目にすることはあっても、こうして近くで向けられることはどうしたって少ない。目に焼き付けたくて思わず見つめるように留まっていた視線がぱちりと重なる。「ところで、」途端に変わる声色と笑みの様子は、二重三重にも心臓に悪い。


「首に触れる行為には『相手と親しくなりたいが踏み込めない』という心理があるらしい、どうだ?当たっているか?」


見上げていたはずの視線が突然ぐいと近づいた。そこではたと気付く、とんでもないことをしてしまったと。当たっているもなにもない。そんなこと1年も前から毎日考えている。もちろんあんな行動で親しくなれるだなんて思うほど馬鹿じゃない、つい衝動的にやってしまっただけだ。そういう無意識の行動に現れるのが深層心理というものなのかもしれないけど。何も言えずじわじわと熱くなる頬を晒したままの私目掛けて迷いのない手が伸びてくる。そのまま私の低い鼻に狙いを定め、ふにゃりと摘まんだ。声にならない驚きは呼吸の仕方すら思い出せない。


「隙があるのはお前の方だろう」
「へ、?」
「これで引き分けだな」


今日何度目かの鐘が鳴り響く、下校時間だ。それを合図に柳の手はそっと離れ、いつのまにか持ち込まれた勝負は静かに幕を閉じたかのように見えた。
「ちなみに、」
とどめを刺すように、耳元で響く声は優しく私の半身を奪った。


「男が女の鼻に触るのは、『可愛いと思っているから』だそうだ」









(18.10.29)


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