世間一般の認識は、恋する女の子が頑張る日。もしくは近しい人に日頃の感謝を伝える日かもしれない。もちろん私にもその概念は備わっているし、出来ることならそんな風に過ごしたいと思っている。
うちの学校にはこの日のために生まれたと言っても過言ではないほどモテる男がいる。跡部はひと言でいうとスーパースターだ。やばい、ウケる。でもまあ事実そうなのだ。バレンタインは一大イベント、良くも悪くもお祭り騒ぎ。
彼に恋する女子は身近なクラスメイトから下級生、高等部、他校の生徒…幅広く存在している。その本気度は「跡部様かっこいいー!」から「告白しようかな…どうしよう…」までピンキリではあるのだが、大多数の想い人であることに変わりはない。実際その過半数は恋にも満たないミーハー心、アイドルに抱く感情と同じようなもので。なんというか、とにかく誰かしらにきゃあきゃあ盛り上がりたい年頃なのだ。その気持ちはわかる。事実去年までは私もそちら側だった。跡部のことは好きどころかファンというわけでもなく、ただの良いクラスメイトとして認識していた。何もかもが派手で近寄りがたい、最初こそ距離をとっていたのだが。隣の席になったのを機に話してみると案外普通にいい奴で、私の知らないことを何でも知っているので面白かった。だから『近しい人に日頃の感謝を伝える日』として私はお祭り騒ぎに参加をしたし、今年もそのつもりでいた。

「告白したいけど、そんな雰囲気じゃないよね」

生徒会の子がそう言って泣いているのを見てしまったのは、当日の朝。お祭り騒ぎは恋する女の子にとって必ずしも有難いものではなかった。バレンタインという名目は勇気をくれる、しかし少々空気が騒がしすぎる。もちろん跡部がそんな想いを邪険にすることはないだろうけど、数分もすればあの大量の賑やかなチョコレートに紛れてしまう。そしてそれは、今私の鞄の中にある六百円ほどの小さな箱も同罪になるのではないだろうか。途端に自分がひどく邪魔な存在に思えてしまった。誰のライバルでもなければそういう対象となるようなタイプもないのに、誰かの恋路を無神経に塞いでしまっているような。ぼんやりとお祭りを遠目で眺めているうちに放課後になり、跡部にあげるはずだったチョコレートは弟にあげた。それが今年の二月十四日。




「おい、起きろ」

既に何度も繰り返し呼ばれていたのだろう。いまだぼんやりとする頭でも察しが付くほど跡部は機嫌が悪かった。先月の延長線上で浮足立つ雰囲気に気後れする私の機嫌もどちらかというと悪い。誰のお返しも待っていない私はわくわくもそわそわもする必要がなく、どの輪にも入れないようなつまらなさに嫌気がさし始めた頃。遠のく意識はいつの間にか三時間目も四時間目も通り過ぎ、気付けば昼休みは残りニ十分しかない。どうりでお腹が空くはずだ。起こしてくれない薄情な友達は一体どこへ。目前には綺麗な顔を歪ませている跡部しかいない。

「ごめん、めちゃくちゃ寝てた」
「放課後まで寝るつもりかてめえは」
「跡部が起こしてくれなかったらそうしてたかも」

堪えきれないあくびが漏れると、乾いた空気が舌打ちまでもを綺麗に響かせた。すいません。
手持ち無沙汰の私とは対照的に跡部の周囲は朝から混沌としていた。彼からのお返しを待ち焦がれる女子は山のようにいる。さすがの跡部も全員にお返しすることは無いけれど、クラスメイトやマネージャーなどある程度の人間関係が成立すれば何かしらの代物が頂けたりする。淡い期待など抱く隙間もない、かといってがっかりもさせない。そんな良い塩梅のセンスによって選ばれるのは海外のお土産と思わしき紅茶とか有名パティスリーのプチギフトとかそんなところだ。もちろんどれもが一級品で、特に去年のオランジェットはびっくりするほど美味しかった。今年は何だろう。想像は空腹を刺激し呑気に腹の虫が鳴った。ああ、お腹空いた。

「購買にまだパン残ってるかなあ」
「食堂行きゃいいだろ」
「生憎五百円しか支給されてないんだよね」

母親に持たされたお昼代はポケットの中で無駄にぬくぬくと暖められている。さてどうしよう。この際あんぱんと牛乳でもいいからありつきたいところだが、購買のパンはとにかく売り切れるのが早い。今から行っても地味な豆パンくらいしか残っていないのが関の山。それでも何もないよりはマシか。ずっしりと重い身体に鞭を打ち、ふらりと立ち上がったところで思い出す。

「あ、ごめん何か用だった?」

ついでのように思い出されたのがお気に召さなかったのか、整った眉が不機嫌に上がった。お、これは怒られるぞ。続く怒声に構えるように肩をすくめるが、何秒経ってもその時は訪れない。随分遅れて降ってきたのは棘の抜けた「バーカ」と小さな紙袋、中には鮮やかなオレンジ色の箱がある。何だこれ。瞬きを繰り返したところで答えに辿り着くにはまだ遠い。無意識にヒントを探る視線が黒板に書かれた日付を捉えた。三月十四日。あぁそうか。いやおかしい。腑に落ちたのも一瞬で、再びぐるぐると謎に迷い込んだ。

「え、なんで?」
「アーン?何がだよ」
「だって私跡部にバレンタインあげてない」

確かに去年までは義理ではあるがチョコを渡していた。気兼ねなくわりとよく話す方の女子に分類されていると思う。となれば、今年も渡していると考えるのが自然だ。うっかり貰ったものだと思い込んでしまうのも無理はない。あれだけの量だ、誰からの物かなんてそう簡単に覚えていられないだろう。

「あげてないもん、貰えないよ」

黙って貰い受けることもできるけど、空腹とはいえそこまで人の道を外れてなるものか。少なくとも跡部のお返しを待っている子の元に渡るべきだ。毅然とは程遠く、まるで詫びの品のように返す。ひと月遅れの罪悪感は助走がついたように重みを増した。こんなことなら余計なことなど考えずにあげれば良かった。

のくせに正論並べてんじゃねえよ」
「はあ?!暴論がひどい!」
「…いいから受け取れ、どうせ余る」
「ええー…まじか…」

返品は利かない、改めて差し出されてしまえばおずおずと受け取る以外の選択肢などあるはずもなく。

「…じゃあ…ありがと」

庶民の正義感など金持ちの余裕の前では無力である。これだって決して安いものではないだろうことは想像に容易い。だからといってすぐに飛びつくのも子供じゃあるまいし気が引ける。と、人が思い悩んでいるというのに。空気も読まずぐうと鳴る己の腹が憎らしい。

「腹の足しにでもしろ」

腹の音も聞こえてしまったのか、去り際の跡部は不満気な溜息を落としていった。
改めて眺めるオレンジ色の箱はなんだかどこかで見覚えのあるようなないような。さほど厚みの無い形から想像するに、この空腹を満たすような重みのあるお菓子ではないかもしれないが。マカロン、キャラメル、何かしらのカロリーさえ摂取してしまえば少しは落ち着いてくれるだろう。救いを求めてリボンを解く手は寸前で止まる。再び疑念を抱いてしまったのだ。こんな食べ方をしていいのだろうか、もっと大切に扱われるべきものではないのか。
これもきっと余計な考えなんだろう、そう思ったところで単なるおこぼれだと割り切ることは出来なかった。




お腹空いた。空腹は自然治癒などしない。予鈴間際に走った売店には菓子パンひとつ残っていなかった。もう食べてしまえと悪魔が囁く。単なる食糧にしてはいけないと天使が嘆く。やかましい脳内議論は放課後にもつれ込んだ。もう限界だ。マックでも寄って帰ろう。
掃除当番だという友達を廊下で待っていた私の前を浮かない顔の女子生徒が通過する。目で追って気付く、生徒会のあの子だ。二年から生徒会に入って、跡部に頼りにされるほど賢くて真面目で清楚な子。その手には多分跡部から貰ったであろう包みがあった。しっかりと胸に抱かれているせいでよく見えないけれど。あんなに大事そうにしているから、たぶんそう。

――告白したいけど、そんな雰囲気じゃないよね

彼女の二月十四日はどう着地したのだろう。告白したのか義理だと誤魔化してしまったのか、私なんかが知る由もないけれど。あの様子だ、彼女の意に沿うような思いが報われるようなものでは無かったのかもしれない。跡部のお返しは等しく優しい、そして残酷だ。例えそこに特別な感情があろうとなかろうと、彼なりの誠意は彼女の心を強く動かしたに違いない。だから、参加すらしなかった私が単なる施しのように同じものを貰ってしまうのは不誠実というかモラルに反するというか。兎にも角にも酷く罪悪感に苛まれてしまうのだ。




「…すいませーん…跡部君、いますか?」

勝者は天使だ。空腹を満たすことを諦めた私は跡部に会うべく生徒会室に来た。卒業式を間近に控え最後の行事に備える後輩をサポートする為、跡部はここのところ現役さながら生徒会に顔を出している。恐る恐る伺う私に気付くと「跡部君なら居るぜ」と茶目っ気を含ませた瞳で愉しそうに微笑むのだから、意地が悪い。跡部君だなんて初めて呼んだ。気恥ずかしいまま扉に手をかけ覗き込むと、がらんとした部屋には眼鏡姿で書類を片付けている跡部だけ。

「あれ?他の人たちは?」
「卒業生を送る会のリハーサルだとよ」
「あぁ、なるほど…」

これ幸い。跡部と仲良くなればなるほど、他人は案外自分のことを見ているのだと知った。まあ本当に見られているのは私ではないのだけれど、注視されてしまう事実からは逃れられないらしい。大事を取って部外者らしくその場で済まそうとする私に、跡部は訝し気に眉をひそめる。

「何そんなとこで突っ立ってやがる、入れよ」

無理に強いられたわけではないのだが、罪悪感も相まってどうにも分が悪い。言われた通りしぶしぶ入室したところで突っ立つ場所が変わるだけ。ふざけた世間話をするためでもましてや告白しに来たわけでもないのだから、膝を突き合わせるのは躊躇われる。後ろ手に隠れる紙袋もとっくに跡部の目に留まっているだろう。
「あのさ跡部、これ…」
意を決して差し出す様子はまるでバレンタインに興じる女子のようだ。

「やっぱり貰えないから返すよ」

余りものとはいえ、おこぼれとはいえ、貰ったものを返すだなんて良い気分なわけがない。それは返す側も返される側もきっと同じだろう。

「だって、みんな跡部のお返し待ってるし」

いまだ受け取られない紙袋に苦々しく笑いかけると、ここまで黙っていた跡部が「…で?」と言った。鋭く研がれた視線を首筋に当てるように。怒っている。

「…跡部のことが好きでチョコ渡した子がいるのに私が同じもの貰っちゃうとか、なんかすごい申し訳ないんだよ」

凍てつく空気に負けるものかと言い訳のようにひと息で吐き出した。ひとつも嘘は無く、不躾にならぬよう、言葉は選んだつもりなのだけれど。漂う沈黙はどんよりと重苦しいまま。行き場のない視線を床に落とし右へ左へ泳いでいると、不安に耐える私の右手が不意に軽くなった。視界に入り込む跡部の手にはしっかりと紙袋があって、小さく生まれる安堵に口元を緩ませかけたのとほぼ同時。持ち主に戻ったはずのそれを無理やり押し付けられるように渡される。落とさぬよう反射的に抱えてしまったけれど、これじゃ振り出しに戻ってしまう。
「ちょっと跡部、」
咄嗟に掴んだ腕はびくともしない、ぐんと距離だけが近づいた。

「同じなわけねえだろ」

怒りの滲む声色が静かに響き、切実な眼差しが私を捉える。

「言ったお前が忘れやがって」



日頃の感謝を伝えた私へのお返しも、等しく平等であると思っていた。帰る間際に渡されたそれは慌ただしいタイミングも相まって、他者との相違を確かめる余裕すらなかった。一寸の疑問も抱かぬままリボンを解き、見慣れないフォトジェニックなお菓子にしばし目を奪われた。その美味しさたるや初めての衝撃で、今すぐこの感動を伝えなければと携帯を手に取るも跡部の連絡先を知らないことに愕然とした。早く明日になればいいのに、早く跡部に会いたい。あの日確かに私は心からそう願い、翌朝運よく下駄箱前で遭遇した跡部に嬉々として告げた。

――ありがとう!すっごく美味しかった!
――私来年もあれがいい!

図々しく強請る私を咎める言葉とは裏腹に、眼差しは心なしか穏やかで優しさを帯びているようだった。

消えかけていた記憶がぼんやりと姿を現していく。本当に跡部はこれをみんなに配ったのだろうか。ふと浮かんだ疑問は曖昧なまま頭の隅に置き去りにしていた。自分だけが特別だなんて思えるほど厚顔無恥には出来ていない。気のせいだと片づけるほうがよっぽど懸命だった。
果たされたはずの約束は押し問答のせいでいくつも皺が出来、端は破れてしまった。そっと撫でようが、包み込もうが、壊れ物の様に扱ったところで今更もう遅い。ごめん。

「…覚えててくれたの」
「この俺が忘れるとでも思ったか」
「思わない、けど…」
「生憎お前と違って記憶力は良い方でな」
「言ってくれてもいいじゃん」
「…流石に見れば思い出すと思ったんだよ」

ごめん。二度目の謝罪が音になることはなく。ボロボロの紙袋を持つ手が二つ重なっていることに気が付いて息が止まった。確かめるようにゆっくりと持ち上げた視線は待ち構えていた熱い瞳に捕らえられ、もう逃げることなど出来ない。私の手を握る力はより一層強くなり、もう十分近づきすぎていたはずの距離は零になろうとしていた。

「忘れるなよ、二度と言わねえからな」

脅しのような前置きを経て、触れるように甘く愛の言葉が続く。
忘れられるわけないでしょう。
蚊の泣くような声で降伏すると、覗き込む碧い瞳が至極満足そうに綻んだ。








(19.4.7)


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