突然のインターホンに無理やり起こされた。枕元の携帯を見ると、どうやら2時16分らしい。夜中も夜中だ。こんな時間の訪問者など十中八九犯罪の類を予感させるのが普通だろうが、あいにく私にはそんな常識的な普通という感覚など通用しない男がいる。そのでかい図体が収まらないのか、決して怪しい人物ではないという安心感を相手に与える気など微塵も無いのか、首から下のガチャガチャとした模様のニットだけがぎりぎりモニターに映りこんでいた。

「…はい」
「俺ばい、早う開けなっせ」
「…近所迷惑だから静かにして」
「寒うて死にそうばい」

大げさな。ニットまで着込んでいるくせに。寒さに弱い千里にとっては極寒なんだろうかと一瞬真面目に考えてしまったが、そんなわけあるか。かといって本当にそこで死なれても困る。いや真冬の北海道でもあるまいし、死ぬわけがない。でも案外頑固なこの男、すんなり帰るとも思えない。つい数日前も同じようなシチュエーションをうっかり隣人に見られてかなり不審な目を向けられた。万が一通報でもされたらそれこそ終わりだ。しぶしぶ鍵を開けると、ほんのり冷気を纏った千里が「寒かー」と大きな体を折り曲げながら慣れた仕草で遠慮も無しに上がってくる。
こんな時間に来ないで
来るなら連絡くらいして
文句ならいくらでも思い浮かんでくるけれど、どれもこれも実際にこぼれることは無かった。そもそもの問題はもっと根っこにある。勝手に暖房の温度を上げる背中を睨みつけながら、床に放られたコートを思いっきり投げ返した。本来なら、こんな行為すら私は許されない。

「もう来ないでって言ったはずだけど」
「近所にんちがあるけん仕方なかよ」
「仕方ないとかそういう問題じゃない」
「じゃあなんね?」
「…バレたらどうするの」






教育実習で私の指導を担当してくれた渡邉先生はテニス部の顧問で、度々部員がやって来てはやんややんやとバカみたいに騒いで貴重な指導時間の邪魔をした。元々運動部の連中が苦手だった私はその嫌悪感が隠れることなく顔に出てしまっていたのだろう。のらりくらりと普段は頼りない雰囲気の渡邉先生は意外なほど人の事をよく見ているらしく、「もっと色んな生徒と関わった方がええで」とテニス部の子達との接触を勧めた。悪い意味でも個性派ぞろいの部員達の中、ひと際目を引いた転校生の千歳千里は中学生らしからぬ随分と大人びた子で、真面目に授業に出ることも無ければ部活動への参加態度も気まぐれというなかなかの問題児だった。その姿は大学の同級生と同じかそれ以上の落ち着きぶりで。異端を具現化したような雰囲気は、直感的に危険人物であることを予感させた。そこまで見透かされていたのかは定かではないが、「問題児と向き合うのも勉強やから」なんてもっともらしい理由で彼を探す役割まで教育実習生に任せるのはどうかと思う。思い返せばそれがすべての運の尽きだった。
「どっかで寝てるはずやから」なんとも無責任なアドバイスを元に探し回っていると、裏庭から小さな影が飛び出して来る。それを目で追った先に私がいたのだろう。まだ幼さの残る猫が私の足にじゃれついてくる様子を眠そうな目で眺めている。やっと見つけた、千歳千里。

「…お姉さん誰ね」
「教育実習生です、朝礼で挨拶したでしょう…ってどうせ朝礼出てないか」
「こぎゃんむぞらしかセンセーばおるなら授業も楽しかね」
「むぞ、ら?……まあいいや、私は3年生は担当しません」
「つまらんね、じゃあなして俺ば探しに来たと」
「渡邊先生が君みたいな生徒と接するのも勉強だから探して来いって」

オブラートに包むことなく問題児として認識している事実を告げても彼が表情を変えることは無く、「オサムちゃんがねぇ…」とダルそうに立ち上がると私の足元の猫をひょいと抱いた。どうやら教室に戻る気はさらさらないらしい。私をまじまじと見下ろしてはその視線を遠慮なく上下させる。まさか中学生に値踏みされる日が来るとは。

「お姉さん名前は?なんて言うと?」
です、
ちゃんね」
先生、です」
「あんたにセンセーは似合わんたい、ちゃん」

大きな手が無造作に私の頭を撫でた。にゃあと鳴く猫はじろりと妬むような目を向けてくる。こいつメスか。中学生にからかわれるなんて、成人としていや教師を志す者として情けないにもほどがある。授業中に緊張で声が上ずって野次を飛ばされるのとはわけが違う。 「千歳君…あのね、」 強めの語尾をするりとかわし、あっという間に背を向けた彼は得体の知れない残り香を漂わせながら消えていった。 私に先生は似合わない。その言葉の意味を知ったのは数日後。慣れない実習に疲れ果てた初めての金曜日。千里はいつもの中庭におらず、薄暗い書庫にいた。

「こんなとこにいた」
「もう授業ば終わった時間ちゃろ、なんね」
「部活のお時間です」
ちゃんは顧問にもなったと?忙しかねぇ」
「今日は部活来てもらわないとって白石君が困ってたよ、早く行こう」
「…白石とも仲良うなったとや」

ふいに変わる目の色に思わず心臓が飛び跳ねた。眠そうに薄められていたはずの目はしっかり鋭く見開かれ私を射抜く。どこへ向けられた敵意なのかわからないまま、年相応の幼さを必死に探したけれど、そんなものは初めて会った時からどこにも無い。

「んーまあ、部長さんはよく職員室にも来るからね」
「…そん顔むぞらしか」
「はぁ?」
「困っちゅう顔が似合う女は良かね」

勢いよく腕を引かれ、次の瞬間には天と地が入れ替わっていた。要するに私は千里に組み敷かれていたわけだけど、あまりにありえない展開を前に冷静さが勝った。なにしてるの。真顔で言い放つ私を千里は可笑しそうに見下ろして、「だから言ったばい」と耳元で囁く。言った?何を。続く言葉を探して辿りつきかけた私に降って来たのは、どこかで想像していたよりもだいぶ深いキスだった。言葉を失ったというよりも、なんとなく受け入れてしまったという方が正しくて。「あんたにセンセーは似合わんたい」あの日の言葉が言い訳のように何度も繰り返し駆け巡る。離れかけた唇を追い求めるには理由が必要だった。一度目は事故でも、二度目は故意でしかない。滑り込んでくる千里の手を受け入れながら、私はようやくあの香りの正体を知った。私は彼に惹かれていたのだ。

千里とそういう関係になってしまったその日から、私は教師になる夢を諦めた。残りの実習期間は無意味な消化試合であり、ただひたすら失礼のないようこれ以上の間違いがないよう真面目な実習生として振る舞うしかなかった。何をしても償いにはならないし、言い訳にもならない。たとえ彼の容貌が成人のように大人びていたとしても、15歳の少年に手を出したことに変わりはない。外に漏れれば一発アウト、私は立派な犯罪者だ。
「私、教師に向いて無いと思います」
耐えきれず漏らした事実は優秀な実習生の謙遜と取られ、先生達の笑いを誘った。さんはきっと良い先生になりますよ。頑張ってね。優しいはずの声は罵倒のように私を追い込んでいく。逃げるように職員室を抜け出しトイレに駆け込んだ私はおぞましい声をあげながら嘔吐した。差し出された甘い好意に背けない欲深さも簡単に現実を見失う幼さも、千里は見透かしていたのだろうか。






「本当に大丈夫?もっかい熱測ろう?」
「心配しなさんな」
「でも、」
「せからしか」

彼が私の唇を塞ぐのは、手段に過ぎない。本当にうるさいのだろう。私を抱く千里の手があまりにも熱く、不審に思い問い質せば数日前から風邪を患っているという。看病らしい看病は断られ、心配もろくにさせてもらえない。彼にとっては全ていらない言葉であり、砂嵐のような雑音なのかもしれない。黙りこんだ私を「ええ子やね」とかさついた手が優しく撫でた。7歳も年下の男の子はいつも私の言葉を奪う、まるで魔法のように。もしくは呪いかもしれない。 静けさに満足した千里は瞼を下ろして穏やかな寝息を立て始める。 そっと握られた手はしっとりと汗ばんで、引きずり込まれるように私も眠りに落ちた。
春になれば私は県外に就職し、千里もあの小さなアパートを何も言わず出て行くだろう。何も残らない、残さない。それでいい。そうじゃなきゃいけない。悪夢のような幸せな時間はいつの日か思い出されることもない。頬を伝う冷たさで目が覚めた。 ふと触れた指先が濡れて、思わず苦笑いが零れる。カーテンの隙間から覗く空はすでに白く明けていた。まだ熱はあるだろうか。そっと額に手を伸ばすと、拭ったはずの涙が流れるように落ちた。確かに千里はここにいるのに、こうして触れることもできるのに。本当は全てとうの昔に失っていたのかもしれない、この僅かばかりの幸福感も。恐れていたはずの未来は通り過ぎ過去になっていた。「愛してる」も「愛されたい」も何ひとつ言えないまま。








(18.11.4)


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