慣れない高い電子音で目が覚めた。そこには慣れない天井、慣れない布団、慣れない匂い、慣れない体温があった。ゆっくり頭ごと視線を動かすと、すぐ隣でブン太が目覚ましに一切反応することなく静かな寝息を立てている。(そういや泊まったんだった)今更驚く事でもないので記憶と目の前の事実を軽く照らし合わせて再び目を閉じた。何のことはない。ただの流れだった。つい酔った勢いで盛り上がってとか、気づいたら押し倒されてたとか、そういうちょっと背徳感みたいなドキドキするようなやつじゃない。この部屋で仲の良い数人で鍋パをやったのが昨晩のこと。ちゃんと終電に余裕を持って解散したのに、改札を通ろうとしたところでブン太から『ハンカチ忘れてんぞ』とLINEが来た。別にハンカチなんて明日大学で返してくれればいいし、明日会わなかったとしてもそんなものいつだっていい。だから、それはそういうコトだった。多分そういうコトなんだろうなと思ってブン太の家に引き返した。「飲み直そうぜい」と笑顔でまた迎えてくれたブン太は案の定ハンカチのことなど一切話題にも出さず、私も形ばかりに忘れたはずのハンカチを見渡したり無駄な余白を作ってみたけれど。結局そういうコトをするつもりだった男とそういうコトを理解した女の展開は本当に早くて、恥じらうような情緒の欠片もなかった。ブン太の身勝手さを実感しているうちに全てがどうでもよくなってしまい、いつのまにか眠りについていた私はブン太の腕の中で目を覚ますという嬉しいのか悲しいのかよくわからない状況に身を置いている。もし横にいるのが恋人だったら、この持て余す朝をどう過ごしているだろう。猫のように甘えて首すじに顔を埋めたり、何もせずただ愛おしい寝顔を見つめたりしているだろうか。そんなことを考えていると何かが髪に触れる感覚が走って思わず目を開いた。


「うおっ、びびった」
「…おはよ」
「起きてたのかよ」
「や、いま、おきた」


寝起きの声は低くかすれていた。ブン太の手からは私の髪がサラサラと流れ落ちていて、(そういうタイプか…罪深い…)と1人で勝手に納得した。慣れてないわけではないけど慣れてるわけでもない。相手が違えばどうしたらいいかわからないこともあって、なんとなく出方を伺っていると髪で遊ぶのに飽きたブン太はもぞもぞと布団から出て行く。床に落ちていたパーカーを羽織りながら「もコーヒー飲むよな?」とキッチンに向かった。後に続くように布団から出ようとする私に「なんかそこらへんにあるやつ勝手に着ていーぜ?」とブン太の気遣いが続けざまに飛んでくる。(…これ女の子が勘違いしちゃうやつだよ…)自分のためなのか過去未来ブン太とこうなる女の子達のためなのか、よくわからない心配をしてしまう。座椅子にかかっているジャージを借りようと手に取って、3秒くらい考えてやっぱりやめた。ジャージより自分のニットの方が暖かいし。そういうことにした。コーヒーを2つ運んでくるブン太を目で追ってみたけれどそこにいるのはいつものブン太で、きっとブン太から見える私もいつもの私で。「ひっでー頭してんぞ」と、雑に着たニットワンピのせいでぐちゃぐちゃになった私の髪をブン太が笑って指で軽く梳かす。友達である私たちの間には多少の気遣いや優しさがあって当然なんだと気づいて、言葉や動作をひとつひとつを拾い集めるなんてことはやめた。


「あ、美味しい」
「天才的だろぃ?やっぱ俺センスあるわー」
「自分で言うかね」
「でも美味いだろ?ちゃんと淹れるのってけっこー難しいんだぜ」


駅前のカフェでバイトをするブン太が淹れてくれたコーヒーは予想以上に美味しかった。試しに自分で挽かせてもらったというコーヒーはそれ専用のお洒落な瓶に詰められていて、(君はとても大事にされてるみたいだね)なんだか嫉妬すら覚える。「こないだも店長に筋がいいって褒められてよ」と得意げに覚えたてのコーヒーうんちくやらを披露するブン太が少し面倒で、へーと適当な返事をしていると案の定ちょっと怒られた。(だって同じバイトの女子高生が可愛いとかどうでもいい)近いうちに自分が作ったケーキを店長さんに食べてもらうらしい。ブン太の作るケーキ美味しいもんね。「でもさすがにプロに食ってもらうのは緊張するぜ?」とブン太には珍しく少し不安げな顔をしたけど、とても楽しそうだった。


「私あれ好き、レモンのアイシングのやつ」
「おー、あれな!結構簡単だから教えてやるよ」


(いや、作ってほしいんだけど、)言いかけたところでふいにブン太が今何時だとつぶやきながらスマホを探し始める。お探しの物はずっとベッドの脇で充電されたままだ。テレビに時間出てるのに。(へたくそ)


「10時前だね」
「マジか、そろそろ準備しねーと」
「バイト?何時?」
「今日は11時」


まずはシャワーだと立ち上がるブン太を合図に私もそこらへんに散ってるブラとかキャミソールをかき集めた。「着替えるから見ないでね」とカップを片付けるブン太に声をかけると「今更だろぃ」とあからさまに何も考えていない笑い声が返ってくる。見えないように片付けていた事実をいとも軽く引っ張り出されて腹が立った。(なんのために、何もなかったように振る舞ってると思ってんだ)ブン太が洗面所に入ったことを確認して手早く着替えを済ませる。カバンの中から先月風邪をひいたときに買ったマスクを見つけたので、どうなってるかわからない顔を隠した。もう化粧なんてどうでもいい。鏡なんて見たくもなかった。 玄関に向かう私の足音に気づいたブン太が洗面所から顔だけ出して「んじゃまたな」といつもの笑顔で言った。わざと大きめに鳴らした足音も、マスクでほとんど見えない私の顔も、ブン太はそんなこと何も気にしていなかった。


駅まで歩きながら、「んじゃまたな」を何度も繰り返し再生した。それはまたこういうコトをしようなということなのか、また大学で会おうなまたみんなで遊ぼうなみたいなごく普通のことなのか。答え合わせもできない、するまでもない。そんなくだらないことに取り憑かれるほど、目も口も手も身体中の感覚全てにブン太が残ってた。ブン太しかいなかった。橋の上から見下ろしながら、今この冷たい川に飛び込めばそれも全部消えてくれるだろうかなんてどうしようもない解決方法まで浮かんだ。
きっと明日、2講目でブン太と顔を合わすことになる。いつも通り一緒に講義を受けてそのままみんなで学食に行くんだろう。何も変わらないいつものブン太に笑いかけられて、うまく笑い返せない私はあの瞬間を思い出す。身体中に残るブン太を思い出す。白か黒か、子供みたいに欲しがって誰かを悪者にするのはお門違いだ。「あれ何のつもりだったの?」そんな疑問を投げかけたところでブン太にとってめんどくさい女に成り下がるだけなのは目に見えている。過去何度もブン太がそんな愚痴を酒の席でこぼす様子を私はずっと苦笑いで聞き流していた。何のつもりだったの?と問われるべきは私なのだ。自分だけは違う、そうやってこれまでブン太が泣かせてきた子たちをどこかで嘲笑っていたんだろう。いくら後悔しても時間は戻らないし昨日までの私たちには決して戻れないのだから、この世に神様なんていないと暴論めいた言い訳をするくらい許してほしい。 ちなみに私の中の「また」は前者だった。あまりの矛盾ぶりに涙も出てこないので、わざわざ取りに戻ったはずのハンカチの行方に思いを巡らすしかなかった。








(2018.3.20)


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