もうどのくらい沈黙を守っているだろう。聞こえてくるのは時計の秒針が刻む一定のリズムのみ。 いつのまにか日は暮れているのに、明かりをつけることにさえ躊躇するほど部室内は静まり返っていた。 ロッカーに寄りかかりながら床にしゃがみこむ私と、机に浅く腰かけながらどこかを見つめている跡部。 もう何十分もこの体勢は変わっていない。変えることが出来なかった。 最初は痛みからだった。慣れない違和感を下腹部に抱えたまま立ち上がることすら億劫と感じた。 次も、痛みだった。悲しいわけじゃないし、悔しいわけじゃない。どちらかというと、達成感に似た気分で。 だからといって嬉しいわけでもなかった。でも、確かに私はそれを望んだ。だから、こうなったんだ。 そしてそこに生まれる疑問は何とも素朴すぎるものだった。跡部は、なぜ答えてくれたのか。何度も言いかけて、ためらって、何か違うと考え直して。闇の中手探りでたどり着いたのは、当たり障りのないただの会話だった。 「…帰んないの?」 ぼそっとつぶやく。声がかすれて聞こえづらかったのかもしれない。跡部は無言のまま しばらく私を見下ろしていた。その目に映っている私はきっとかなり卑猥に違いない。シャツのボタンはすべて外されているし、一見しっかり履いてるように見えるスカートも実はその下は何も履いていない。下着は足元で小さくまとまっていた。こんな姿を凝視されるなんて耐えられないほどの恥辱なはずなのに、一度身体を合わせてしまえばこれほど無感情になれるものなんだろうか。 「…お前こそ」 随分な時間差を経て跡部の返事が返ってきた。返事にもなっていないけれど、一応会話としては成り立っただろう。 すると突然張りつめていた糸がプツンと切れてしまった。言葉を交わした途端、急に人間味のある感情が襲ってくる。露わになっている自分の素肌がどうにもいやらしくて、感覚の危うい指でボタンをかけていく。何度も何度もかけ間違う様子はあまりに滑稽だ。 「…?」 「…なに」 「大丈夫か」 いつもの私なら「跡部様に労ってもらえて光栄です」なんて冗談のひとつもとばせるはずなのに。そんな優しい言葉は本物すぎて辛い。なんで私なんかにそんなこと言うんだ。沈黙に耐えきれなくなったのか跡部の視線の先がまたどこか遠くになった。 「…大丈夫」 不自然な体勢のまま下着を履くと、ひんやりとまとわりついてくる感覚に息をのんだ。それは紛れもなく自分が恥ずかしい姿を晒した証拠だった。辺りに漂うのは汗と跡部が放ったにおい。足元に散乱するティッシュ。跡部とセックスをしたという紛れもない事実がそこにあった。今更ながらに襲ってくる羞恥心は今にも爆発しそうで、早く逃げてしまえと警笛を鳴らす。 「…私帰る」 逃げるように部室を出ようとする私を跡部は予想していたかのようにあっさりと捕まえた。力任せに掴まれた腕があまりに痛くて思わず跡部を睨みつける。羽織ったジャージからのぞく彼の胸元はついさっきまで重なり合っていたなんて思えないほど艶めかしく、恐怖すら感じた。 「…痛い…離してよ…」 「逃げんな」 「離してってば…」 「なんでが逃げんだよ」 その場限りの反論さえ出来なかった。それでも頭はしっかりと動いていて、思い出すのは始まりの瞬間と組み敷かれて知った跡部の重みだ。痛みを感じるほど大きく脈を打つ心臓。グイッとまた強く引き寄せられて、覚えのある近さにまで跡部が迫る。あと数センチ。どんな風にキスしたっけ。深く、深く、噛みつくように。何度もキスをしたはずのその形の良い唇は、触れることなくただ私の名前を呼んだ。 「」 「…なんで」 「あぁ?」 「…なんでしたの」 跡部の声で「」と呼ばれる日が来るなんて、想像すらできなかった。その手で触れられるなんて、ありえないと思っていた。 だから、せめて形だけでもいいから欲しいと願って。今を失う覚悟で告白にもならない陳腐な欲をさらけ出した。その場だけの処理でも、結果嫌われても、そんなことは大した問題じゃないと思っていた。なのに、なぜこんな優しい目を向けられなきゃいけないのか。みじめだ。 「…ごめん…私が誘ったからだね」 「どうでもいい女を抱く趣味はねえよ」 「…じゃあ今日から新しい趣味ができたね」 「てめえ…人の話を聞け」 「もういい…」 「なにがだよ」 「こんなのいらない…違う…」 跡部が一瞬ひるんだ隙に掴まれていた腕を力いっぱい振りほどいた。 そのまま飛び出してしまいたかったのに、余力を尽くしてしまったのか足に力が入らない。 その場に崩れるようにへたり込む私を、跡部の腕が咄嗟に受け止める。 払っても払っても差し伸べてくるのは優しさじゃない。同情?そう、きっとそれ。 優しさなんかよりよっぽどマシだ。頭のおかしい可哀想な女だと、冷ややかな目で見られる方がどんなに楽か。限界を超えて溢れだした涙が延々と流れ続けた。 違う。 本当はセックスなんてしたくなかった。こんなことはするなと拒絶してほしかった。喉から手が出るほど欲しかった跡部が、こんなに簡単に私の思い通りになるなんてどうかしてる。あぁ、違った。どうかしてるのは私の頭だ。また頭の中が真っ白になる。 さっきもそうだった。一番最初に跡部とキスをしたときも。そのあともずっと。 行き場のない怒りに任せて跡部の首に腕を回す。押しつけるようにキスをすると、涙の跡まで転写した。 まるで泣いているような跡部の頬が、私の心を千切りにする。どうして受け入れられてしまうんだ。 「…なんなの…」 「もう黙れ」 「うるさい」 「」 「なんて呼ばないで…」 「」 「やめてってば!」 再び感じた跡部の体温はまだ燃えるように熱くて。ジャージ越しでも伝わってくる早い鼓動が、 跡部景吾もただの男子にすぎないんだと教えてくれた。 一度でも知ってしまったら、忘れるなんて出来るわけがない。 これが最後だなんてそんなのただの綺麗事。 私の中のねじれた欲望がきっとまた跡部が欲しいとうずくんだ。そして抱きとめてくれる跡部を汚らわしいと拒絶する。叶って見えたのは生々しい現実。快楽なんていかにせつないものか。 (2009.7.24) (2018.4.21加筆修正) |