とんでもないことになった。目が覚めたら隣に知らない男が寝ている。嘘。ごめん。知らない男じゃなかった。めちゃくちゃ知ってる男だった。しかし私が知っている彼は少なくともこんな展開とは無縁な存在で、だとすれば知らない男という判断を下しても間違いではないだろう。隣の男がほぼ独占している掛け布団は先週IKEAで買った花柄のカバーがかけられていて、ここが私の部屋であることは間違いないらしい。ほぼ野ざらし状態の私はキャミソールにパンツ姿。ここでいうパンツは下着のことであり、こんな気休め程度の着衣じゃ何ひとつ安心などできない。なんかあったのか、なかったのか、どっちなんだ。ズキズキと痛む頭を抑えながら必死に記憶を辿る。彼が目覚める前にとりあえず事の経緯くらいは思い出したい。どうしてこうなった。ここまでの間なにがあった。



昨日は友達の結婚式に出席していた。たしか三次会まで残って陽気に飲み続けていたと思う。友人達と別れた帰り道、終電などとっくに諦めた午前様。
さん?」
タクシーを捕まえようとフラフラしている私の前に現れたのは中学時代のクラスメイトだった。懐かしい顔ではあるが久しぶりというわけでもない。半年前にあった上京組の同窓会で再会してからというもの、お互いの職場が近いこともあり何度か食事をする仲になっていた。
「木手だあ!」
馬鹿みたいにご機嫌を振りまきながら走り寄る私はお約束とばかりにつまづいた。履き慣れない高いヒールな上、このへべれけ状態だ。咄嗟に支えてくれた木手のおかげですっ転ぶことだけは避けられたものの、彼の涼しい視線に見下ろされても平気で笑っていられるほど私は酒に飲まれていた。

「随分と酔ってるみたいだね」
「へへ、ごめんー」
「あまり強くないんだから、ほどほどにしなさいよ」
「木手は?飲み会帰りじゃないの?」

酒豪である木手が私のように酩酊することなどないかもしれないがこれはどう見たって素面だろう。お酒の入った木手はもう少し饒舌になるはずだ。
酔っ払いなど相手にしないと言わんばかりに無言のまま時計を確認した木手は何か探るように軽く辺りを見回した。

「どうせタクシーでしょ、一杯付き合ってもらいますよ」

接待で飲むわけにいかないからね、飲み足りないんですよ。そう言うと、木手は近くにあった適当なバーに私を引っ張り込んだ。ドラマに出てくるみたいな落ち着きのある洗練された店内では形ばかり華やかに装う私はどことなく場違いのようで。それでも隣でグラスを傾ける綺麗な横顔に気づいてしまってからはそんなことを考える余裕すら無くなってしまった。

「そのワンピース、品があってなかなかいいですね」

よく似合ってますよ。大人になった木手はあの頃よりずっと穏やかで優しい笑みを浮かべる。そんな彼に再び恋心を抱くのにそう時間はかからなかった。臆病なまま何も成長していない私は告白する勇気など持てるはずもなく、こうして隣に座るだけで精一杯だ。
気恥ずかしさを誤魔化すように飲み進めるのはオレンジジュースのような甘いカクテル。度数は知らないけれど好んでよく飲んでいる。せっかく覚め始めていたはずの酔いはあっという間に呼び戻された。
「スクリュードライバーおかわりくださぁい」



結局何杯飲んだのだろう。残念ながら記憶はここで途切れている。さしずめ起承転結の承といったところだ。なんの解決にもならない。おかわりくださぁい、じゃないよ。馬鹿か。
起こり得る展開は状況証拠から導き出す限りひとつしかないのだが、もう少し自分を信じる時間が欲しい。酔いに任せて一晩過ごすなど、私はそんな軽い女ではない。たとえその相手が好きな人であってもだ。もう一度言う、私はそんなに軽い女ではない。と思いたい。
頭を抱える隣で布団の下がもぞりと動いた。短く唸る声は目覚めた合図か。思わず身構えた身体が解けるほど木手はゆっくりと起き上がった。インナーシャツ姿に少し安堵する。
「おはようございます」
いまだ狼狽える私とは対照的に、木手はこの状況に何の疑問を抱いていないのか不思議なほど落ち着いている。ベッド脇に置かれた眼鏡に手を伸ばす様子はどこか無防備で、それが妙に色気を帯びていた。思わず見惚れる視線の先で素直に下された彼の髪がさらりと揺れる。昨晩、木手の髪はいつも通り綺麗にセットされていたはずなのに。それが下りているということは。

「何?どうかしたの」
「…あー…いや、なんていうか…」

ひとつ、またひとつ揃っていくパズルのピースが私を追い詰める。いい加減腹をくくろう、起きてしまったことは仕方がない。小さく息を吸い、覚悟を決めた。
「あのさ、こんなこと聞くのもどうかと思うんだけど…」
深刻そうな顔で改められて、木手は初めて動揺を見せた。出来得る限り濁しながらぼんやりとしたニュアンスで試みる。
「その……何か起きてしまったり、した?」
いい大人とはいえダイレクトな表現はあまり得意ではない。遠回りな問いかけを補填するように、ベッドにある全てをわざとらしく見渡した。本当に事が起きていようがいまいが流石にピンと来るだろう。

「何かってなんですか」
「えぇ…そりゃあ、その…酔った勢いで、的な…」

すっとぼけるというよりは尋問に近い。不機嫌を存分に含んだため息を落とした木手はあからさまに顔を歪ませた。

「俺が酔い潰れてる女性を抱くような悪趣味な男に見えるの」

怪訝を越して睨みつける様子は殺し屋と呼ばれたあの頃を彷彿とさせる。滅相もございません。千切れんばかりにぶんぶん首を振る。ついさっきまでの下世話な思惑は中学時代を過ごした遠い遠い思い出の海に投げ捨てた。何度も非礼を詫びる胸中は懺悔七割、安堵三割といったところだろうか。そんな本音を見透かしたかのように、木手は二度目のため息を吐きながらわざわざ私の顔を覗き込んだ。

「君が突然吐いた時はどうしてやろうかと思ったけどね」

思いも寄らぬ言葉に自分の耳を疑った。

「え…?は、吐いた…?」
「呆れますね、それすら覚えていないんですか」

さっきから妙に声が掠れるとは思っていたけれど。胃酸にやられたのか確かになんだか喉が痛む。数時間前に起きたらしい凄惨な出来事は記憶に残っていないものの、過去の経験を遡れば何が起こり得るかくらい安易に想像がつく。もう全てが最悪だ。

「…もしかして…木手にぶちまけたりした…?」
「それは大丈夫ですよ、でも君を運んで汗もかいていたのでシャワーをお借りました」

最も恐れた事態こそ避けられたが、次々に明らかになる事実はそれ以上の破壊力を持つ。これなら間違いが起こっていた方がまだマシだった。酒癖の悪さもそういう展開ならばドラマになり得るけれど、さすがにこれはコントにもならない。

「あれだけ酔ってしっかり住所が言えたのは感心ですが、不用心が過ぎますよ」
「……はい」
「何かあってからじゃ遅いんだからね」
「……はい」
「それと、服」

服。木手の言葉をなぞるように視線を下へ向けると、改めて自分の身なりの軽率さに気が付いた。今更慌てて恥じらう権利もない気がして、ゆっくりと足元に絡みつくタオルケットを持ち上げる。
「俺が脱がしたわけじゃありませんよ」
淡々と告げられる事実におとなしく頷くことしか出来ない。
話は簡単だ。トイレを抱えひとしきり吐き終えた私は暑い暑いと騒ぎ出し、木手が止めるのも聞かずぽいぽいとその場で脱ぎ散らかした。事実、昨日着ていたはずのワンピースはテレビの前でしわくちゃになっている。三万円もした一張羅は最早愚かさの象徴でしかない。
「……本当に…すいませんでした……」
どうしようもない醜体を晒し続けた罪は海より深い。恋を失うどころか人として軽蔑されたに違いない。もう二度と沖縄に帰れない、同窓会にも行けない。高校入学と同時に東京に転校した私にとって大事な大事な故郷なのに。
全てが自業自得なのは承知の上で、涙はどうしても止められない。せめて泣き顔だけは見られまいとひたすらに頭を下げた。

「いい加減顔上げなさいよ」
「…ごめん」

滲む声に気が付いたのか、木手は子供をなだめるみたいに「別に怒ってるわけじゃありませんよ」と言った。昔から自分にも周囲にも厳しさが目立つ彼も常に恐ろしい鬼畜というわけではない。確かに彼の意に反すれば殺し屋に睨まれることもあるけれど、普段はどちらかといえば穏やかで紳士的な人なのだ。この状況下でも手を差し伸べてくれるのは成長した彼の優しさなのか、それとも哀れみなのかはわからないけれど。それに甘えてしまうのは躊躇われる。
さん、ひとつだけ確認したいんですが」
追撃のような前置きに思わず肩をびくりとさせた。他にも何かしでかしたのだろうか。まだ見ぬ事実に恐る恐る顔を上げると、待ち構えていた木手が意地悪く目を細めた。

「君が俺を好きだというのは本当なの?」
「ひっ…!?」
「それとも酔って適当なこと言っただけですか」

まさかそんな大きな罪を犯していたとは。嘔吐、脱衣ときて最後は告白と来たもんだ。他と比べ響きのインパクトは劣るものの、酔いに任せて曝け出した本心は何よりもダメージが大きい。かろうじて残っていたらしい羞恥心がじわじわと耳を熱くする。どうなんですか。言葉を失う私に痺れを切らした木手は脅しのように顔を寄せた。
「ほ、本当、です…」
潰されたカエルみたいな声を絞り出すと、本当に?と念を押される。慌てて何度も頷く様子にようやく納得したらしい木手はゆっくりと私から離れた。

「そう、なら良かった」
「へ…?」
「俺もさんが好きだからね」

爆弾発言にも程があるだろう。喜ぶべき状況な気はするが、あまりに全てが結びつかない。私は好きな男の前で馬鹿みたいに酔い潰れ、家まで送らせ、目の前で吐き、服を自ら脱ぎ散らかした挙句に酔った勢いで告白するような女だ。たとえどんな絶世の美女だったとしてもこれで大体の男はドン引きするに違いない。私がやらかしたのはそういう大罪なのだ。もしかして木手はまだ酔っているのだろうか、それともどこかで頭を打った?大丈夫?
私の心配を他所に木手は冷静にこちらを見つめるばかりで。到底信じられないけれど、どうやら彼は至って正気らしい。

「この状況で、それを言う…?」
「君は人のこと言える立場ですか」
「うっ…それはそうだけど…」
「まったく、どこまで勝手なの」

どういうわけかじりじりと迫ってくる木手に後ずさるも、既に背中はぴったり壁に貼り付いている。触れずとも伝わる熱がいよいよ重なる寸前で、咄嗟に右手がそれを防いだ。

「何の真似ですか」
「え、だって…そんないきなり…」
「告白して抱きついてきたのはどこのどいつでしたか」
「だ、抱き?!…いやだからそれは酔ってたから…!」
「なに、酔ってないと俺とは出来ない?」

頬を掠める木手の髪は私と同じシャンプーの香りがした。いいえ、と落とした言葉は唇ごと奪われる。
目の前で吐いた女を抱くなんて、木手は本当に悪趣味な男だ。








(19.6.10)


inserted by FC2 system