人を貶めるなんて愚かな人間のすることだと思う。たとえどんなに容姿が優れていようが優秀であろうが家柄が良かろうが、誰かを傷付けていい理由にはならない。感情のままに侮蔑や怒りに直結させるなど動物同然だ。むしろ動物にも失礼かもしれない、彼らにとっては生死に関わるやむを得ない事情を抱えての行動だ。くだらない人間同士の争いとは訳が違う。
そもそも私は何も悪いことなどしていない。恨まれる筋合いがない。そう強く、言い返せれば良かった。


『ブス』

空っぽの靴箱からひらりとメモ紙が落ちる。殴り書きの筆跡は誰のものか見当もつかないはずなのに、脳裏には数人の顔が確かに浮かんだ。そこにあるはずの茶色いローファーは忽然と姿を消し、もう一枚『ビッチ』と書かれたメモ紙だけが悠々と鎮座していた。
ブスだけど、ビッチじゃねえし。
ローファーの行方は探す気にもならなかった。王道の展開を予想するに、どこかのゴミ箱の中とかトイレの用具入れの中とかプールに浮いてるとか。そんなところだろう。見つけたところでどうせもう使い物にならない。そんなものを履いて帰ればきっとお母さんを泣かせてしまう。
幸い帰り道に大型のスーパーがある。確か靴屋さんも入っていたと思う。安物ならなんとか買えないこともないだろう。手探りで取り出した財布を確認すると、本日の全財産五百円。季節外れのサンダルが買えるかどうかの額だ。がくりと項垂れながら改めて足元をじっと見る。学校指定の上靴、これだってけっして安くはない。昨晩から降り続いた雨が止んだのは昼休みが終わる頃で、まだまだそこら中水たまりだらけ。二次被害を生むだけになってしまうかもしれない。それでも今の私に残された選択肢は勇気をもってこのまま帰ることのみだ。女は度胸、いざ。意を決して上靴に許されたテリトリーを踏み越え、一歩二歩と順調に進んだその時。「?」と呑気な声に呼び止められた。振り返るより先に引っ張られた感覚はさほど大きくはなかったけれど、平均以下の運動神経しか持ち合わせてない私を転ばせるには十分過ぎるほどのもので。大きくバランスを崩した背中に走るはずの衝撃はなぜか柔らかく、それが何を意味するのか瞬時にわかってしまったからには一秒でも早く離れなければならなかった。反射的にスカートを直しながら急いで適切であろう距離を取る。視界に入るのはあの赤い髪。声でわかってはいたけれど、思わずビクリとしてしまう。


「ご、ごめん!丸井大丈夫?怪我とかしてない?」
「こんなんでするかよ、お前は?」
「全然大丈夫」
「ならいーや」


故意ではないとはいえ、全国レベルのテニスプレイヤーに怪我などさせるわけにはいけない。ましてや相手は丸井だ。彼を庇い他者を責める人間が山ほどいる。本当に大丈夫か?手首をひねったり腰を打ち付けたりしてないだろうか、注意深く観察してみるも素人目にわかるはずもなく。やっと何かを気にしたかと思えばポケットに入れていたスマホの安否だった。特に大きなリアクションもないところを見ると幸い無事だったのだろう。ほっと胸をなでおろす私を余所に、丸井はスマホをいじりながらこちらを一瞥することもなく話を振る。


「てかさ、お前なにやってんの?」
「なにって…帰るとこだよ」
「上靴で?」


スポーツ選手は動体視力が良いと聞く。一瞬で私が何を履いているのか見定めた丸井が慌てて引き留めたということらしい。髪を染めたり着崩したり自由好き勝手に過ごしているくせに、他人の規則違反に目ざといとはどういう了見だ。ジャイアンか。


「えーと、まあ、お気になさらず」
「なんだそれ」
「なんでもないって、ほんと」


上靴のまま帰る姿などなんでもないはずがないことは小学生でもわかりそうなものだが、ここは無理やりにでも押し通すしかない。丸井だってそこまで馬鹿じゃない、少し考えれば見当がついてしまうだろう。数時間前の記憶だって絶対にまだ残っているはずだ。

「ほんと、全然何でもないから!また降らないうちに早く帰ったほうがいいよ!」

ほら!とわざとらしい笑顔で急かす私を不審そうな視線が探りを入れる。しつこいな、なんでもないって言ってるのに。なんでもなくないけど。逸らせば負ける気がして、見つめるというよりは睨みつけるような目で訴える。早く!帰れ!

「…ま、いーや」

押し負けたのは丸井の方だった。鞄を拾い上げ雑に上靴を戻すと、さっきまでの粘りなど嘘のようにあっさりと背中を向ける。

「お前も早いとこ帰ったほうがいーぜ」
「う、うん!帰る帰る!」
「じゃーな」


ローファーを履く足元、スマホを確認する手元、玄関の向こう側。丸井の視界から私が消えて、外の世界へ戻っていく。それでいい。それでいいんだ。
振り向きもしない赤い髪は自転車置き場へと消え、それ以上見送ることも出来ない私はただじっと上靴を見つめていた。


何分見つめようが上靴は上靴のまま、ローファーになることはない。決めたはずの覚悟も丸井のせいでまた一からやり直しだ。秋の夕暮れつるべ落とし。これ以上の迷いは時間が許さない。無理やり踏み出した一歩と重なるように少し遠くから突然大きな音が響いた。バタバタとこちらに近づいてくる足音に思わず身構えるがどこにも隠れる場所は無い。これ以上誰にもこんな姿なんて見られたくないのに。逃げることも出来ず咄嗟に下げた視線の先に飛びこんできたのは、投げるように置かれたほとんど新品と思わしき綺麗なスニーカーだった。

「やっぱりまだ居たか」

まだ記憶に新しい声に顔を上げると、とっくに帰ったはずの丸井が立っていた。ということは、このスニーカーは丸井のもの。スニーカーの違いなんて見分けはつかないけれど、丸井の手にあったということはテニスシューズなんだろうか。


「え、なに…?丸井帰ったんじゃ、」
「それ、履いて帰れよ」
「…は?」
「上靴で帰ったら明日履くやつ無くなっちまうだろ、まだ結構そこらへん濡れてたし」


だからこれで帰れと丸井は言う。あ、デカいのは我慢しろよ。気遣ったつもりなのだろうか、生憎そんな補填などどうでもいい。消しゴムじゃあるまいし、そんな軽々しく借りていい代物ではない。丸井にとってはたかがテニスシューズかもしれないが、私にとってはされど丸井のテニスシューズだ。


「こんなの借りれないよ、全然綺麗だし…」
「だから貸すんだろい」
「いや、だから借りれないって」
「気にすんなって、別に新品ってわけじゃねーし」


丸井の言うとおり、よく見れば確かにソールの辺りが黒く擦れていた。とはいえ一度や二度使用した程度だろう、ほとんど新品のようなものである。ぶんぶんと首を振りわかりやすい拒絶をする私を見ても何も思わないのか、丸井は一向に引こうとしない。こいつどんなメンタルしてるんだ。


「どうせこれからすぐ汚れっから」
「そういう問題じゃ、」
「だーかーらー、遠慮すんなって!」


強まる語尾はまるで私が間違えているかのように錯覚させる。だって仕方がないでしょう。丸井にこんな親切心を差し出される理由なんてどこにもないし、むしろ煙たがれていてもおかしくない話だというのに。彼は間違いなく見ているのだ。数時間前の、私がクラスメイトに囲まれている様子を。

さんそんなキャラだっけ?作ってんの?」
「恥かくだけだから勘違いしない方がいいよ?」
「身の程知らずだよね、ウケるんだけど」

下手な昼ドラの台詞か、ウケるのはこっちだよ。突然わけのわからない喧嘩を売られ、教室からぞろぞろと連行される私を助けてくれる声はひとつも無かった。階段を降りる私たちとすれ違った丸井は「なにしてんのお前ら」と素直な疑問を投げかける。それらしい理由を適当に告げる彼女たちに罪悪感などどこにもないし、それを「ふうん」と上辺で流す丸井も少し長めの視線をくべる程度の関心しかないのだろう。同情も揶揄もない、どちらかといえば無感情に近い丸井の顔を思い返しながら好き勝手並べられる言いがかりに耐えた。彼女達がそこまで怖い存在ではないことはわかっている、単に私に友達がいないだけの話なのだ。

始業式、クラス替え初日に運悪く風邪をこじらせた私は数日学校を休む羽目になった。あとは説明しなくてもわかるだろう。登校した時には後の祭り、どのグループにも属せなかった。きつい顔立ちのせいで初対面に失敗しがちなのは慣れていたものの、ここまではっきりと浮いてしまうのは初めてで。おまけに隣の席はやたら女にモテると悪名高い丸井ブン太。誰とでも天性の才能で仲良くなってしまう丸井ブン太。 そんな殿上人には常に一人で過ごす私の姿が可哀想なものに見えたのだろうか。
朝は「英語の予習した?見せてくんね?」から始まり、昼は「お前今日もパン?足りんの?」、下校時間になれば「んじゃまた明日な」と飽きもせず毎日のように私に話しかけるようになった。カースト最下位と最上位の交流はさぞかし不思議な光景だっただろう。自分でもそう思う。
常にたくさんの人に囲まれている彼には想像すら出来ない世界でも、元々友人の少なかった私にはそれほど打ちひしがれるような状況ではなかった。寂しくなれば他のクラスの友達に会い行くことも出来たし、屋上でサボる程度の図太さも持ち合わせている。 有難迷惑だ。もちろんそう吐き捨てるなんて出来ないけれど。


「なんで?」
「あ?なにが」
「なんで丸井がこんなことしてくれんの」
「なんでって、靴無かったら困るだろい」
「…あんま私と話さない方がいいよ、丸井の名に傷がついても知らないよ」
「バカじゃねーの?んなもん付くかよ」
「付くんだってそれが」


なんだそれ。呆れたように視線を逸らす丸井の目に留まったのはほぼ空っぽの靴箱で。ちょうど丸井の背丈と同じだったのだろう、不自然に置かれたメモ紙にもすぐ気が付いてしまった。置きっぱなしにした私が悪い。躊躇せず手を伸ばすと「うっわ」と乾いた笑いをこぼした。


「ひっでえ書かれようだな」
「自業自得だから」
「なにお前ビッチなの?」
「違う!」
「冗談だっつの、ブスでもねーし」

床に落ちたままのメモ紙も目ざとく見つけられてしまった。これも拾い忘れた私が悪い。

「…別にブスは否定しないよ」
「んなことねーって」

ほら、とトドメのようにテニスシューズを更に私の近くへと放った。

「明日の部活までに返してくれりゃいいからさ」


まるで悪を成敗した正義の味方のような清々しい笑顔。この醜い不毛な争いの原因が自分だなんて考えにも及ばないのだろう。たとえばもし私がこの靴を返すところを誰かに見られたとして、その後に起こり得る展開なんて想像すらしない。それほどまでに彼の世界は光に満ちている。


さ、お前結構可愛いんだしもっと笑えばいんじゃね?」


微塵も照れることなく言い切って、再び去っていく背中は吐き気がするほど爽やかで。小走りで向かう先では自転車に跨る細い影が丸井を待っている。あの子は丸井が何をしていたのか知っているのだろうか、一部始終見ていたのだろうか。私なんかのせいで待たせてしまった事実が心底申し訳なかった。
もっと自分の立場を考えてほしい、自分の価値を正しく自覚してほしい。愛想の良さが仇となる現実を知ってほしい。もし丸井がもっと優しくなくて冷たくて、選り好みが激しくて可愛い子としか話さないような下衆な男だったら。泣いてる女がいても見て見ぬ振りで去っていくような男だったら。 彼の無駄に大きな寵愛を求めて誰かを傷つけるような女子なんていなかったかもしれないのに。

テニスシューズに恐る恐る足を入れながら、やっぱり突き返せばよかったと後悔した。一歩、また一歩。弱々しく進む度、ひと回り大きな靴がパカパカと間抜けに鳴く。歩きづらい。転びそう。引きずりながらやっとの思いで校門から出たところで大きな水たまりを踏んだ。飛び散る黒い斑点にテニスシューズも靴下も飲み込まれ、ようやっと我に返る。
そんなに嫌なら上靴で帰ればよかったじゃないか。丸井のテニスシューズなんて、そのまま靴箱に返せばよかったのに。微かに綻ぶ口元も紅潮する頬も全て気のせいだと片付けて、無神経な優しさだと振り払えばこんな厄介な感情など気付かずに済んだだろう。
とうとう落ちてきた雨粒が頬を何度も冷やしたけれど、熱は焼け付いたように居座り続ける。形ばかりの丸井の言葉がこびりついて離れないからだ。愚かな私を誰かがゲラゲラと笑わっているような気がした。あの子達の言う通り、これは身の程知らずの恋なのに。

「余計なお世話だ、バカ」








(19.7.8)


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