ついさっきまでは雲もまばらで、過ごしやすい夕暮れを満喫するにはぴったりの天気だったというのに。ミーティングを終えて職員室でオサムちゃんと話をしていた間に空は豹変。これは滝か何かですか?といいたくなるほどの豪雨に見舞われた。濡れて帰ればいっか、なんて能天気なことを言えるレベルではない。 念のために下駄箱前まで来てみたはいいものの、目の前に広がるのは大きな雨粒が勢いよく地面に当たって跳ね返る光景で。1歩踏み出せば一瞬のうちに見るも無残な状態になることが容易に想像できるほどだ。部室に戻って時間つぶすしかないか。 「先輩?」 突然の声に振りかえると、数メートル先に財前がいた。その左手には食堂前の自販機で調達してきたらしい紙コップがあって、白い湯気がほのかにあがっている。 「傘忘れてん、財前も?」 「まぁそんなとこですわ」 「ツイてないわぁ」 「『晴れときどき雨』、止むの待つしかないんちゃいます?」 「せやな…あ、ちょお待って私もなんか買う!」 私が後を追うことを前提に歩き出した財前を慌てて呼び止める。うす暗い廊下を1人で歩くのは苦手だ。足音だけを雨に重ねて鳴らしていると、孤独を誇張しているみたいでなんだかもの寂しい。なによりさっきから漂ってくる甘い香りがうらやましくて仕方ないんだ。 「はよ行きますよ」 「待ってよココアまだ途中やねんから」 「ココア?真似せんといてください」 「ええやんオソロやオソロ」 「先輩きもいっすわ」 可愛くないひと言に喝をいれようとしたけれど、少しずつココアを口にしている様子に気づいて我慢した。いつもより歩幅の狭い後を追う。静かすぎる道のりで何を話そうかと考えるより、見慣れない財前の仕草を盗み見ることのほうが楽しくて。そんな自分の様子に気づいた頃にはすでに部室は目の前だった。 「みんなは?もう帰ったん?」 「とっくの間に」 「えーつまらん」 「謙也くんが先輩のこと探しとったけど、メール来てませんでした?」 「え、そうなん?…あ、ほんまや…もしかして謙也傘持ってた?」 「逆ですわ、先輩が傘持ってるんちゃうかって」 「なんや…って財前なんであんた部室の鍵持ってんの」 「さぁ?なんでやろ」 どうせこっそり合い鍵でも作ったんだろう。当たり前のように鍵を開ける財前の頭を今度こそこずいてやった。面白くなさそうに振りかえる顔は見慣れたもんだ。真っ暗の中ずらりと並ぶロッカーは全部きちんと閉まっていて、しばらく誰かがいた気配はない。漂うのは机に置いた2つのココアの香りだけ。 向かい合って座ってもとくに視線が合うこともなく、財前はだるそうに座って窓の外をうんざりと眺めていた。 「みんな傘ちゃんと持って来てたん?偉いなぁ」 「そういうわけちゃいますけどね」 「あぁー謙也みたいに持ってる人探したり?」 「探さんでも誰かさんなんかは……や、まぁええですわ」 言いとどまって少しばつの悪そうな顔をする。何に気を遣われているのか、微妙な空気をどうにかしようと次の話題を探していたときだった。ふと思い出したのは1時間ほど前の光景で。白石は私に「鍵頼んだで」と言い残し、誰よりも早く部室を出た。あぁ。そういうことか。自分が傘を忘れても、隣にいる子が傘を持っていればいいだけの話。あの子はちゃんと傘を持っていたのかもしれない。考えないようにしてたのに、いつだってほんの小さな隙間から入り込んでくる。ちょうど財前の後ろには白石のロッカーがあって、無機質なねずみ色の扉はコチラを見ろといわんばかりに妙に目を引いた。逸らしても逸らしても、そんな無駄な抵抗は意味がない。でも、これじゃまるで財前を見つめてるみたいだ。 「何?」 「あー…ごめんバレた?ほんま財前は可愛いなぁて見とれてしもた」 「きもいっすわ」 「いけずー」 「…見とれてたんわ後ろやろ」 コツンと軽く後ろのロッカーを小突くと、財前は呆れたように私を見た。すべてお見通だったというわけか。情けなくて恥ずかしくて、笑って誤魔化すことしか出来ない。ココアを飲んだりスカートの皺を直したりそわそわと無駄な動作を繰り返しながら。いつまでたっても消えてくれない私の中の白石が悔しくて深いため息が思わず漏れた。今のため息も聞かれてしまっただろうか。恐る恐る顔を上げると、その表情は思った以上に真剣なもので。未練がましいどろどろとしたものが財前にまで伝わってしまったのは明らかだった。でも、それさえも今更なのかもしれない。きっと他のみんなだって白石を目で追う愚かな私に薄々気付いてる。財前もさっきから腫れたままの目で何も無かったように振る舞う私に気づいていて、何も言えないでいるのかもしれない。 「アホみたいやろ」 「…別に、」 「白石とのこと…もう半年も経つのに」 「別にええと思いますけど」 「部活も辞めんと、結局こんなに居座って」 「それで、さっきオサムちゃんと話しとったんですか」 「…知ってたん?」 「職員室入ってくとこ、見たんで」 オサムちゃんに呼び出されたのは備品の確認で、とくに特別な話など何ひとつなかった。部室の鍵を渡そうとポケットに手を伸ばした時、ふとこれがさっきまで白石の手の中にあったことを思い出しただけで何かが壊れてしまったのだ。オサムちゃんは突然泣き出した私をどうにか落ち着かせようとしたけれど、半年間溜め続けたどす黒い感情は簡単には消えてくれなくて。ただひたすらもう辞めたいと繰り返すことしかできなかった。オサムちゃんは何も言わず、私の手から今にも落ちそうな鍵を黙って受け取った。「ええから、もう帰り」ポン、と頭に置かれた手が暖かくて。私は何度もうなづきながらしばらくその場で泣いていた。 「もう、潮時やな」 「そんなんおかしいわ」 「白石にもみんなにも、なんや申し訳ないし」 「気にせんでもええやないですか」 「…もう、…耐えられへん…」 途切れ途切れになった言葉が雨音にかき消されそうになりながら危うげに伝わる。抑えきれない嗚咽交じりの涙を遮るように、不快な金属音が響いた。それがロッカーの音だと気付くのに時間はかからなかったけど、晒し切ってしまった羞恥心に上げる顔などどこにも無く。止まらない涙としつこく浮かんでくる白石の顔に成す術も見つからないまま、視界に突然入り込んできたのは赤いタオルだった。 「色落ちしとるけど…洗ったばっかやから、使ってへんし」 ぽつぽつと落ちる涙がタオルを色濃く染めた。すべて終わってしまったあの日から人の優しさを拒んできたから、差し出させるその気持ちが痛くて仕方がない。素直に受け取れないタオルは机に置かれたまま静かに私の涙を受け入れ続ける。一向に動かない空気が重みを増して頭に鈍い痛みが広がって来た頃、無言で隣に立っていた財前がタオルに手を伸ばした。 「俺は、そんなん許さへん」 勢いよく取り去さられたタオルを思わず目で追うと、歪んだ財前の顔がぼやけて映った。 「あんたには最後までマネージャーで居てもらわな、困る」 声が微かに揺れる。 「先輩には、ずっと見ててほしいねん」 堪え切れなかったのだろうか、早口になった言葉が尻つぼみに流れていった。 「ざいぜん…」 こぼれた声は名前を呼ぶことすら難しいほど弱く、行き場もなくフワフワとしていた。まるで空気のように漂うそれを、財前はしっかりと捕まえる。目の前に広がるのは白くて柔らかな世界。シャツ越しに伝わる温もりは優しすぎてまた私を涙の海へ落とした。出し絞るように流す涙は拭われることなく落ちていく。 雨はもうすっかり止んでいた。 (18.6.24 加筆修正) |