ゆっくりと引き上げられる瞼。こういう時、目覚めは大抵すっきりしない。気怠さを纏った四肢は重く、べたつく身体がどうにも不快だ。シャワーも浴びず電池切れのようにそのまま眠ってしまったのだから仕方が無い。今何時だろう。上体を起こしサイドテーブルに手を伸ばすと腰に絡みついた腕に力が籠った。彼の眠りもどうやら浅かったようだ。


「ん、……起きたん?」
「あ、ごめん起こしちゃったね」


ええよと微笑む声は心地よく低い。時刻は午前ニ時半。変な時間に目が覚めてしまった。このまま彼の腕の中に戻るのも悪くはないけれど、何より今は喉が渇いて死にそうだ。それになんだかお腹も空いた。巻き付く腕を解こうとそっと手をかけると、何を勘違いしたのか蔵ノ介はそれを絡め取るとそのままぐいと私を引き戻した。


「うわっ」
「こら、あかん」
「えぇ?蔵ノ介暑くないの?」
「ちょっと汗ばむくらいがええねん」


変態め、私は暑いんです。涼を求めジタバタ暴れるも、手足を器用に拘束されてすっかり身動きがとれない。それどころか蔵ノ介の顔はなお一層近づき、悪戯な風が耳に触れる。
「ちょっと、蔵ノ介!」
続いて囁かれる甘い言葉に抗議の声を上げた。生憎こちらはそんな気分ではない。いつも優しいはずの蔵ノ介もこういう時だけは少し強引なのが玉に瑕だ。抵抗空しくとうとう組み敷かれる形になるのだが、予想外の救世主によってそれは阻まれることとなる。
ぐうううううぅぅぅ…
割って入るかの如く盛大に鳴り響く空腹の音。蔵ノ介の危うい手つきもぴたりと止まった。


「…ちゃん、今のはなんや?」
「多分お腹の音かな」
「アホ、ムードぶち壊しやないか」
「生理現象にクレームつけないでよ」
「俺の愛でお腹いっぱいとちゃうんか?」
「愛でお腹は膨れません」
「いけずやなぁ」


不満げな言葉とは裏腹に、蔵ノ介は愉しそうに私の額に唇を落とした。それで満足したのだろうか、ようやく私の上から退くと思いの外あっさりとした仕草で先にベッドから降りていく。なんだか名残惜しい気もするけれど、引き留めなどすればそれこそ彼の思う壺だろう。なにより今の私には蔵ノ介よりも喉から手が出るほど追い求める存在があるのだ。
、麦茶飲んでええ?」
冷蔵庫を開ける蔵ノ介の顔がぼんやりと照らされる。私の恋焦がれるものが二つもそこにあるのだから、嬉々として向かうよりほかないだろう。そそくさとTシャツをかぶり、前言撤回とばかりに彼の背中にしがみつく私はさながら光に吸い寄せられる夏の虫のようだ。


「なんや、暑かったんとちゃうんか?」
「今は平気なの」
「我儘やなあ」


そこは素直と言ってほしい。わざとらしい問いかけも蔵ノ介の声色は一定してご機嫌だ。
おっといけない、肝心のアレを忘れてた。麦茶の注がれる音を合図に背中から離れると、冷凍庫からもうひとつの焦がれるものを取り出す。
ええい頭が高い、控えおろう。このお方をどなたと心得る。ハーゲンダッツクリスピーサンド、ウィークエンドシトロン様にあらせられるぞ!


「…、なんやそれは」
「ハーゲンダッツクリスピーサンド、ウィークエンドシトロン様」
「水戸黄門か、敬うな」


印籠のように見せつけたところで蔵ノ介には何の効力もないらしい。するりと私の手からそれを奪い取ると触れる程度に私の頭を小突いた。冷たい。


「ハーゲンダッツ返してよ」
「こんな時間にアイスなんて食うたらあかん」
「いいじゃん暑いしお腹空いたんだもん」
「昼もかき氷食うたやろ?冷たいもんばっかで身体おかしなる」
「大丈夫だってばー!ねえお腹空いたー!」


いくら駄々をこねようがこういう時の蔵ノ介はとても頑固だ。深夜の高カロリーなど健康志向の高い彼がそう簡単に許すはずがない。差し出される麦茶を唇を尖らせながら受け取ると、「また明日食べよな?」と幼い子供のようになだめられた。まるでお母さんのような蔵ノ介によって愛しのハーゲンダッツは静かに冷凍庫へと戻され、私のお腹は再びぐうと間抜けに鳴く。
「…しゃあないなあ」
しょんぼりと麦茶を飲む姿がよほど悲し気に見えたのか、蔵ノ介は私の頭をなでながら困ったように笑った。


「なんか作ったるから、座って待っとき?」
「ほんと?いいの?」
「ただし、低カロリーであったかいもんやで」
「じゃあエアコンの温度下げてもいい?」
「ちょっとだけな」


さっきまでの落ち込みは何処へやら、おいそれと尻尾を振ってしまうのだから我ながらおめでたい。アイスへの思いはまだ完全に断ち切れていないものの、彼の手料理とあらばそんな未練など跡形もなく消えるのも時間の問題だろう。それほどまでに私はがっちりと胃袋を掴まれているのだ。胃袋だけでは無いけれど。

軽快なリズムの包丁、くつくつとお湯の沸く音。雑誌やリモコンで散らかるテーブルを片付けていると、程無くして美味しそうな香りが鼻をくすぐった。お行儀よく姿勢を正す私の前にスープマグが置かれ、八月には少し似つかわしくない白い湯気が立ち上る。寒い季節になると出番が増える、私のお気に入りメニューのひとつだ。


「豆腐と卵のスープ、これならあったまるしカロリーも低いからな」
「これ好き、優しくて美味しい」
「女の子なんやから冷えは大敵やで」


かれこれ付き合ってニ年は経つのだが変わらず手厚い女の子扱いが嬉しくもあり少し気恥ずかしい。目の前の蔵ノ介はさも当然だとでも言いたげにこちらをじいと見つめる。そう凝視されると食が進まないと過去何度も抗議はしてきたものの、一向に受け入れられる気配はない。なんでも私の食べている様が好きらしい。


「…食べづらい」
「ええから気にせんと」
「…どうせ食べてるところがエロいとか言うんでしょ」
「さすがやな、ようわかっとる」


意思の疎通は承諾と判断されたのかテーブルの下では蔵ノ介の足が私の足をなぞる。思わず肩を跳ね上げると至極満足そうに微笑まれるが、この甘い流れに屈してはいけない。食べたら寝る。寝るったら寝るんだ。確固たる決意をもって絡みつく足を跳ね除けた。


「しないよ?今動いたら吐くから」
のやったらゲロでも受け止めたるわ」
「嬉しいけど、その愛はちょっと重い」
「心外や」


大げさな泣き真似をする蔵ノ介を横目にゆっくりと咀嚼を繰り返す。猫舌の私はまだ半分も食べ終わらないけれど、いくら時間をかけたところで蔵ノ介がおやすみと唱えてくれるとは思えない。彼の愛でずっしりと満たされる幸福を噛みしめながら、汗ばむ額に敗北を覚悟した。








(19.8.18)


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