馬鹿正直に一途だったわけじゃない。それなりに恋愛もしてきたし、たった1人を大事にしようと誓ったこともあった。それでも、いつも心のどこかにあの人がいて、俺の人生を邪魔する。









「どうしたの日吉、ボーッとして」
「…なんでもない」


相変わらず能天気な笑顔を浮かべるあの人を一瞥して、鳳から受け取ったグラスに口を付ける。少し甘口のシャンパン。これもどうせあの人の好きな銘柄か何かだろう。飲み慣れない香りがまとわりついて離れない。悪酔いでもしそうだ。耳に入って来る喜びに満ちた声がより一層それを予感させる。ため息をひとつ落として、まだ2口ほど残ったグラスをウエイターに返しその場を後にした。「え、ちょっと日吉どこ行くの?」と慌てる鳳に「トイレだよ」と当たり前の返答をする。いくらこの場にいることが苦痛以外の何ものでもなかったとしても、ここから勝手に立ち去るなんてそんな非常識な真似は出来ない。それはあの人が一番よくわかっている。わかってて俺を呼んだ。本当に、勝手な人だ。


「あれ?若こんなとこでなにしてんの?」


大広間の喧騒から逃れるように、ロビーで少々にぎやかすぎる街中を見下ろしていた。大きな窓に反射する白いドレス姿に気付かないはずもなく、声をかけられるよりだいぶ先に彼女の声は俺の中で鳴り響いていて。想像通りの少々低めのその声が数秒後に俺の名前を呼んだ。気付かない程静かにテンポを上げていく鼓動は己が平常心であるかのように錯覚させる。振り向くと、直視できないほど綺麗な笑みを浮かべる花嫁が思っていたよりも近くに立っていた。


先輩こそ、主役がこんなとこにいていいんですか」
「うーん、だってなんかあの人仕事関係の人達と難しい話で盛り上がってるし」


意味わかんないよね?とつまらなそうな顔をして遠くにいる跡部さんに視線をうつす。もちろんその言葉の裏には今日に至るまで積み重ねた大きな大きな想いがあって。その証拠に、先輩は全てを包み込むような温かな目で跡部さんを見つめている。左手の薬指に銀色の誓いを輝かせて。そんなどうしようもない現実を見せつけられたおかげで、改めてもう彼女は『』ではないという当たり前のことに気づかされた。


「すいません、もうじゃないですね」
「え、いいよで!みんなもそのまま呼んでるし、跡部が2人いても紛らわしいじゃん」


自分から振った話題に自分で動揺してしまう。跡部が2人いる。学生時代違う意味で追いかけ続けた2人が、皮肉にも同じ苗字になってしまった。これから先、どちらかを思い出すことがあれば必然的にもう1人も手を繋いでいるかのように出てくるのだ。もういっそのこと2人共俺の記憶から消してしまった方が身の為かもしれない。そんなことできるわけないくせに。


「今景吾と話してる人、なんかすごい偉い人なんだって」
「そりゃ偉い人ばかり来てるでしょうからね今日は」
「取締役社長とか名誉会長とかCEOとか…全然わかんない!」
「そのすごい偉い来賓に挨拶しなくていいんですか」
「やだよもう緊張するし疲れるし!このままみんなで飲み行きたいー!」
「そんなこと言ってるとまた跡部さんに怒られますよ」


そういう勘だけは失われていなかったようで、現に跡部さんは少しイラついた様子でこちらを見ていた。もちろん俺と一緒にいるからじゃない、先輩がこんなところでいつまでも油を売っているからだ。今更そんな小さなことを気にするような人があの立場にいるわけがない。それどころか、あの頃から俺は一度だって跡部さんにとって争うに値するような存在ではなかった。絶対に追い抜いてやると尊敬と闘争心を複雑に絡ませていた数年間。テニスだけじゃない。いつか奪ってやりたいと。懐かしい若く強すぎる感情に揺さぶられ、思わず瞳に力が籠った。同時に引きずり出される思い出は、晴れの良き日に決してふさわしくない。そんな俺を見透かしたのだろうか、先輩の視線もいつかの日を辿るように遠くをなぞっていた。


「なんかすごい久しぶりな感じする」
「宍戸さんの結婚式以来ですか」
「去年?でもあの時若すぐ帰っちゃったじゃん」
「仕事途中で抜けてきてたんで」
「今日は、休み取ってくれたの?」
「…そうですね」
「ありがとう」


感謝の言葉にはそぐわない、笑っているのに泣きそうな顔。「景吾が、帰ってくるの」そう言ったあの時の先輩もこんな顔だったと記憶している。忘れるわけがない。 一度は手に入ったはずの最愛の人は、言葉にならない謝罪と涙をこぼしながら跡部さんの元へと戻って行った。このときばかりは、正直殺してやろうかと思った。悪いのは跡部さんかもしれないが、異国で多忙だなんて勝手な理由で捨てられたくせに「俺にしとけばいいじゃないですか」なんて酔った勢いで言った俺にほだされる先輩も先輩だ。寒気がするほどの年月を費やしたわりに成就したとは言い難いほどの軽い始まり。そんな関係が長続きするはずもなく、跡部さんが帰国したことをきっかけに全てはあっさりと無かったことになってしまった。こんなことなら、せめて何も知らないうちに失いたかった。その温もりも肌ざわりも匂いも。あんたのことなんて、あの制服姿のまま忘れてしまいたかった。


「ごめんね」
「…なにがですか」
「色々、ぜんぶ」
「…あんなの学生ならよくあることでしょう」
「若、なんか大人になったね」
「あんたがいつまでも子供なだけだろ」
「…ほんとだね、呆れちゃう」
「…いい加減戻った方がいいですよ、跡部さんの立場ってもんもあるでしょう」
「そうだね、じゃあ」
「転ばないで下さいよ」
「うん、ありがと」


「ここのコースすごく美味しいからいっぱい食べてってね!」そうやって無駄に振り返って、着慣れないはずのドレスを引きずりながら足早に去っていく。案の定躓く彼女の様子に思わず一歩踏み出そうとする俺を制したのは、当然のようにその細い肩を支えるタキシード姿の跡部さんだった。恥ずかしそうに笑って誤魔化す彼女の笑顔はあの頃と何も変わっていないけれど、何も変わっていないように見えているのはきっと俺だけで。大学を卒業して、社会人になって、俺が彼女のいない人生を歩んでいる間彼女も俺のいない人生を歩んでいて、その隣にはずっと跡部さんがいて。
俺なんかが案じたところで彼女が幸せになることは最初から絶対的に約束されているけれど、せめて祈るくらいはさせて欲しい。

「どうか、幸せに」









(2018.6.3)


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