仁王はたまたま彼女がいなくて
私はずっと仁王が好きで


だからって別にどうこうするつもりもなかった。 相手はあの仁王だし、毎日ろくにメイクもせずジャージ姿で走り回っている私なんて『性別が女子』レベルの認識でしかないと思っていた。急な雨に降られて中断を余儀なくされた部活の時間。つい最近まで毎日のようにフェンスにへばりついていた仁王の彼女がめっきり姿を現さなくなったことが議題に上げられた。私は幸村と今日の残りの練習メニューをどうするか真面目な話をするフリをしながら、左耳に全神経を集中させてその詳細を拾うことに必死になっていて。あきらかに上の空な様子に気づいた幸村に「ちゃんと聞けよ」と笑顔で怒られたのとほぼ同時だったと思う。「先輩チャンスじゃん!」とバンバン私の背中を叩きながら赤也の馬鹿が叫んだ。みんなの視線が一気に私に集中する。もちろん仁王も。終わった。やっぱりこいつに知られたのは失敗だった。そもそもブン太なんかに相談したのが間違いだった。こいつらを信用した私が馬鹿だった。この世の終わりだと死んだ目で固まる私の隣に赤也を押し退けた仁王が並ぶ。そして


「ほー、そんじゃ付き合うか?」


と信じられないことを言いやがった。こんな公然で。「帰りどっかコンビニ寄ってく?」みたいなテンションで。雨音だけが響く中、無言で頷いた私はやっぱりこの世の終わりのような顔をしていたらしい。


なんとも色味のない声でお付き合いというものを始めた私と仁王はほぼ毎日一緒に帰る仲になった。正確にいうと、一緒に帰るだけの仲になった。みんなでぞろぞろ帰っていたものが2人になった。それだけのこと。どこにも寄らないし遠回りもしない。その日あったあれやこれやを話す私と、ほーかほーかと相槌を打つ仁王がただ並んで歩いているだけ。メールをしても5回に1回くらいしか返ってこないし、電話なんてもちろん出ない。休みの日にデートなんてしたこともなかった。需要と供給の一致というものは必ずしも何かを進展させる根拠にはならないらしい。きっとこの時間はどこかの可愛い子から告白されたり好きな子ができるまでの穴埋めなんだろう。形ばかりの彼女だ。そう考えても別にさほど悲しくはなかった。そもそもまさか付き合うだなんて思ってもみなかったから、よくわからない夢の中にいると思えば納得がいくくらいの話だった。


「ちぃと買い物付き合ってくれんかの」


少し早めに部活を切り上げたのはそのためだったらしい。てっきり仁王1人で帰るのかと思い早々に着替えに行く様子を気にも留めないでいたら、「置いてくぜよ」とだらしなくマフラーを垂らした仁王がいつの間にかフェンスの向こうに立っていた。「部活サボってデートっスか?!」とケラケラ野次を飛ばす赤也に「うるさかー」と言うだけでその場を動かない。思い起こせばこの時点でだいぶ様子はおかしかった。さあどうしようかと振り返っても、こんなとき怒鳴り散らすはずの真田は委員会で不在だし幸村は好きにしろとでも言いたげに笑うだけ。なんだ、根回し済みかよ。

いつもとは逆方向の電車も駅前のショッピングモールもこの時間は混んでいた。はぐれないように思わず仁王の鞄を掴んでしまったけれど、このくらいなら許されるだろう。ちゃんとすぐに離したし。仁王が好きそうな感じの服屋さんも本屋さんもすべて素通りして、ふらりと入ったのはおしゃれなインテリアショップ。次から次へと目を奪われるような可愛いもので溢れている。既にお目当てのものがあるんだろうか、仁王は軽く店内を見回しただけでそのまま脇目も振らず食器のコーナーへ向かった。


「マグカップ?割ったの?」
「姉貴が家を出るんじゃ」
「ひとり暮らし?」
「そー」
「じゃあ、お姉さんにプレゼントってこと?」
「そんなとこ」


仁王はシンプルなイニシャルがプリントされたものや可愛いキャラクターものを手にとっては首を傾げている。どれもピンとこないんだろう。仁王の方がセンスはいいだろうし何よりお姉さんの好みも知っているだろうから私じゃ何の助けにもならないだろうけど、なんとなく目に留まったステンレスのタンブラーを手に取った。そういえばこないだ帰省したお兄ちゃんが言ってたんだ。


「ビールは冷たいままだし温かいコーヒーも冷めないんだって」
「ほー、便利そうじゃの」
「これ色も可愛いしおじさんぽくなくていいね」
案外センスいいのう」
「まじで?大丈夫?実用的過ぎない?」
「あいつ酒好きやけ役に立つじゃろ、これにする」


ラッピングをお願いして出来上がるのを待つ間、少し離れたところから仁王を盗み見ていた。可愛いクッションカバーを探すフリをしながら。元々はこのくらいの距離感だったと思い返しながら。私たちは友達だったけど、部員とマネージャーだったけど、けして特別仲が良いわけではなかった。かといって悪くもなかった。可も不可もない関係性は逆に何もないことを実感してしまって、きっと卒業するまでこの距離感を保ち続けるんだと思っていた。だから、今でも不思議で仕方ない。たとえ形だけでも彼女にしてくれたこと、放課後に2人で買い物をしていること、こうして行ってみたかったカフェで向かい合って座っていること。夢にしては長すぎる。


「またなんか余計なこと考えちょる」


いつの間にか落ちていた視線を上げると、仁王は自分の眉間を指しながらわざとらしくシワを寄せていた。私がそういう顔をしているということらしい。咄嗟に出た「お腹空いちゃってさ」なんて言い訳は嘘でもないし本当でもない。ただ簡単に笑顔に戻りたかっただけ。仁王のハンバーグからジュージューと美味しそうな音がするたびに、私のカルボナーラからチーズのいい香りがするたびに、やっぱりこれは夢じゃないんだと思い知らされる。正真正銘の現実として、実に彼氏らしい振る舞いをする仁王がハンバーグを食べているんだ。


「今日の仁王、やっぱ変」
「何がじゃ」
「なんていうか、彼氏みたい」
「彼氏だった気がするんじゃが」
「いやそうなんだけど、そんな感じじゃなかったじゃん」


違和感に耐えきれず、くるくるとパスタを巻き取りながらついでのように話を振った。多分そのくらいがちょうどいい。少々巻き取りすぎたパスタは躊躇なく大口で放り込んだ。美味しい。そんな私を見て仁王は笑っているけれど、どうせこんなガサツな女は歴代彼女にはいなかったのだろう。どうせパンケーキとか食べてたんだろう。マネージャーなんて汗でぐっちゃぐちゃになった髪とか泣いてどろどろになった顔とか3年間そんなところまで見られていたんだから。今更そんなことを気にしたところで仕方ない。そんなことを考えながら私がもぐもぐと食べる手を止めないでいるせいか、仁王も器用にナイフを動かしたまま話を続ける。


にはそうしとうなかったき」
「…まぁ、彼女っぽくはないもんね」
「悪い意味に取りなさんな」
「いや念のため聞くけど…付き合ってる?」
「付き合っとるかもわからんもんは付き合っとるうちに入らん」
「ということは…?」
「ということは」
「付き合ってない」
「なんでそうなる」


仁王は静かにナイフとフォークを置いた。切り替える様にウーロン茶をひと口飲んで、真っすぐにこちらを見る。それがまあまあ神妙なものに見えてしまって、私も慌ててパスタを巻いていた手を止めた。


「彼女になってもじゃろ?」
「うん」
「彼氏になっても俺は俺じゃ」
「うん」
「変わらんものは大事にせんと後悔する」


再びフォークが動き出して、ふらふらと当てもなく迷うように遊ぶ。


「うっかり変えてしまったらな、もう戻らんのじゃ」


ぴたりと止まったフォークはそのまま目玉焼きを突いた。とろりと流れ出る黄身はどんどん広がって端から少しずつ固まっていく。ぐちゃぐちゃ潰されてハンバーグと一緒に仁王の口の中に消えていった。もう二度と元の形には戻れない。たぶん、そうして消えた恋がいくつもあるのだろう。仕方がないことと薄ら笑って、見えない傷をいくつも作って。


「私は変わっても、変わらないよ」
「あぁ知っとる」


知っとるよ、と繰り返す。
根拠なんてどこにもなくて、そんなことはどうでもよくて。長い夢から覚めたとしても、私はけして変わらないよと彼に約束したいのだ。それが愚かで幼い願いでも。
だから、好きになってよ。私の事。








(18.6.17)


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