つい最近まで私の左手の薬指には指輪が光っていた。別に結婚しているわけではないし、元いた時代に誰かを残してきたわけでもない。審神者としてこの本丸にやって来るより少し前の話になるのだが、私には所謂婚約者というものがいた。過去系になっているから破談したと判断してもらって構わない。それでも当時の私はまだ上手にその事実を受け入れることが出来ず、愚かな未練をずるずると引きずったままここへ来た。覚えることもやらなければいけないことも山ほど抱える毎日は、悲しむ暇も泣いている隙間さえも無かった。その対象が何であれ、一生懸命打ち込む心は醜い執着を溶かす力があるらしく。いつの間にか誰から贈られたのかも忘れてしまうほど、いつの間にか指輪はただ薬指にあるというだけの存在になっていた。なんだか寂しくもなるけれど、もう不要なものなのかもしれない。今度万屋で買い取ってもらえるか尋ねてみようか。そんな情のないことを考えながらも、それはいつまで経ってもしつこく薬指に居座り続けていた。そんな矢先のこと。 本丸に新しい刀剣が加わることになった。

「源氏の重宝、髭切さ」

双剣として打たれた髭切と膝丸。ふた振りをほぼ同時に顕現させた私は間髪入れずに緊急の審神者会議に召集されてしまった。しっかりと顔を合わせることが出来たのは、それから丸一日経ってからのこと。近侍の清光に支えられながらへとへとで本丸へ戻って来た私は気を失うように眠ってしまい、目が覚めた時には彼らの存在すら忘れかけていた。まだまともに挨拶すらしていないというのに。とはいえ今回の消耗はなかなかに酷く、本調子に戻るにはきっとかなりの時間を有してしまう。こんな格好で良ければ、と失礼ながら寝間着のまま自室にて場を設けさせてもらうことにした。

「君が今代の主でいいのかい?」

身体は大丈夫?労わるようにふわり微笑む髭切の瞳が何かを捉えピタリと止まった。

「おや」

わかりやすく小首を傾げるその視線の先には私の左手。

「主には、伴侶がいるんだね」

遅れた祝福をするように目を細めた。
彼らが鍛刀された世において結婚指輪の文化はない。それが何であるのかわからなければ疑問に思うこともない。刀剣達に「それは何?」と聞かれることもあるにはあるけれど、深刻さの欠片もないただの純粋な未知への好奇心ならば答えるこちらとしても心が軽い。 だから、真意を知るその言葉はあまりに深く深く私の触れられざる所まで達してしまったのだ。ありゃ?と目を丸くする髭切、何か驚愕している膝丸。ふたりの様子に「え、え、」とまばたきを繰り返せば、手の甲に幾つも雫が落ちてくる。そこでようやく自分が涙を流していることに気が付いた。


「あああ兄者!主に何か無礼を働いたのか?!」
「ええ、そんなことはないと思うよ」
「しかし!現に泣いているではないか!」


慌てて否定しようにも、その根拠となるものを差し出すことができない。何が違うんだ。決して髭切のせいではないこと。ではなぜ泣いたのだ。それが結婚指輪になるはずのものだったから。なるはずのものがどうなったのだ。永遠に対となる日が来ない、金属のごみ屑になった。ごみ屑になった。ごみ屑になったものを、御守りのように肌身離さず大切にしていた。なぜ。愛されていたことを、愛していたことを、過去に出来なかったから。過去に出来るほど、未来の自分を信じることが出来なかったから。 先の見えない暗闇のようだと嘆いていたはずなのに、こんなにも短く整理されてしまうとは。まるでこの布団のようにぬくぬくと思い出に浸かりながら。怒り、悲しみ続けることを自ら選んでいたのか。
言葉など何も出て来ない。細い嗚咽を響かせるだけの私には微かに擦れる布の音など気付くことは出来なくて、

「今日のところは、これで失礼するよ」

変わらず穏やかな口調で退室していく彼らを一瞥する余裕すらなかった。職務を放り我を失うほど涙する審神者なんて、情けないにもほどがある。何より彼らは付喪神、神様だ。無礼なのは私の方じゃないか。


「うーん、どうしたんだろうねぇ」
「あぁ…勘弁してくれ兄者…」
「お腹でも空いているのかな?」
「兄者!そんな訳がないだろう!」


襖向こうの兄弟は温度の違う小競り合いを続けている。今急いで引き留めればまだ審神者としての自信を失わずに済むかもしれない、元からそんなものあってないような程度のものだったが。布団を剥いだところで目についたのは鉄のごみ屑。こんなもの、こんなもの。力任せに引き抜いて何処に向けるでもなく投げつけた。床の間に転がり落ちたのだろう、カランカランと乾いた音を響かせている。残された薬指はじんわりと赤くそこにあった証拠をしぶとく示し続けていた。







審神者会議から戻った私が深く眠っている間のこと。夕飯を済ませ時間を持て余していた髭切は、テーブルに置いてあった雑誌を訳もわからぬまま読んでいた。よくある月刊の情報誌。季節に沿う内容は来たる6月に向けてブライダル特集を組んでいた。


「…ええーっと、」
「……加州清光」
「そうそう、それだ」
「もー!忘れすぎ!さっきも言ったじゃん!」
「ごめんごめん、あまりに沢山居るものだから」
「……で?なに?」
「これはなんだい?」


髭切が指したのは、白い衣装に身を包む女性の手に光る指輪。元が刀だからだろうか、鍛錬された物はどうにも気になるらしい。


「あぁこれは、結婚指輪」
「けっこんゆびわ?」
「そ、祝言を挙げる二人がその証として交換するんだってさ」


初期刀である清光には早々に事情を説明していた。とっくの昔に終わったことだと理解はしていても、何かをきっかけに心が壊れてしまう可能性も捨てきれない。個人の事情で投げ出すなんて許されないことは重々承知しているけれど、何かが起こってからでは遅い。これから長くを共にするであろう清光だけには話しておくべきだろう。まだまだ未熟な私に出来る、最低限の覚悟だった。


「……主のは違うから」
「ん?なんのことだい?」
「……別に、なんでもなーい」


そう軽々しく明かせるような話ではない。そんな判断も清光の優しさだったのだろう。



「俺がちゃんと髭切に話しておけば良かったよね…ごめん」

御膳を運んでくれた清光がぽつりぽつりと言葉を選ぶ。相当心配をかけてしまっているのだろう、小指の爪紅が剥げているのに気づいている様子はない。屈んだままなかなか浮かんで来ない頭をそっと撫でると、伺うようにやっとその視線を上げた。


「清光が謝る必要なんてないよ」
「そうかもしれないけどさー…」
「…ありがとう、優しいね清光は」


もう一度撫でてやると、今度こそ嬉しそうに笑った。髭切も清光も、誰も何も悪くない。悪いのは全て私。後ろばかり見ていた私のせい。もうここには無いはずの指輪はうっすらと白く跡を残している、この夏随分と日に当たってしまったせいだろうか。赤くなったり白くなったり忙しい。
なにより、あれ以来会えずじまいになっている髭切と膝丸のことが気がかりだった。来たばかりの彼らは一日も早く人の身体に慣れる必要があり、様子を見ながら極力出陣させている。当然のごとく本丸においてその姿を目にすることは各段に減り、病床に伏すように過ごしている私は尚のことその機会を失いがちになっていた。それでも毎日耳にするのは誉を重ねる双剣の活躍ぶりで。感謝も謝罪も伝えられないまま、黙ってその気持ちを膨らませることしか出来ずにいた。

それから2日ほど経って、私はなんとか日常に戻った。溜まりに溜まった書類を片付けて、色々と滞ってしまった経緯を報告し、謝罪に回る。ひと段落ついた頃にはもうすっかり日が暮れていた。
雑にくくっていた髪を解きながら廊下を進んでいると、「兄者ーー!」と誰のものだか察するに容易い声が響く。近くにいるのだろうか。思わず辺りを見回すと、ひょこりと近くの部屋から髭切が顔を出した。何かをもぐもぐと頬張っている、大方膝丸に分け与えられた菓子を食べてしまったのだろう。そんなことがよく起こるとこんのすけが言っていた。

「おや?やあ主、久しぶりだね」

一応ひとつ屋根の下暮らしているのだから久しぶりという言葉はどうも似つかわしくない気もするが、久しぶりなのは事実である。「そうだね、お久しぶりです」と軽く会釈をすると、

「随分と良い顔色になったね」

髭切はその大きな目をくるりとさせ笑った。見た目だけならば私とさほど変わらない年頃だが、気立てはやはり年長者のそれといったところなのだろうか。それとも彼独特のふわふわとした性格ゆえか。数日前の一件など無かったかのように振舞う様子は、どう声を掛けて良いのやら決めあぐねていた私には申し訳ないほど有難いものだった。

「突然泣き出したりして、すみませんでした」

早く謝らなければ。気持ちばかりが先走り、前置きもなくいきなり頭を下げてしまった。突然の展開に髭切は全く事態を把握できないらしく、ぱちぱちとまばたきを繰り返すばかり。うーん、と数秒考えこんではみたものの答えに辿り着くことは出来なかった様で。 「なんのことかな?」とまた困らせてしまった。


「何日か前の話だけど、私の部屋で髭切と膝丸とご挨拶をしたときに…私が突然泣いてしまって……」
「ああ、そんなこともあったよね」
「…もしかして、忘れてた?」
「忘れてはいないよ、どうでもいいことじゃないからね」


刀とはいえ、女性に泣かれて無関心ではいられない。それはこの酷くマイペースな髭切も例外ではないらしい。


「主に嫌われてしまったと、弟も嘆いていたよ」
「え!?違う違う!嫌ってなんかないよ!?」
「ありゃ、そうなのかい?」
「うん全然そんなことない!本当にごめんなさい!」


無事あらぬ疑いは晴れた様で、髭切は安心したように良かった良かったと頷きながら縁側に腰掛けた。私も座れということだろうか、空いている隣をぽんぽんと叩いて、ほら、と笑顔で急かしてくる。
新しく迎えたばかりの刀剣だ、もっと共に過ごす時間を作りたい。今夜は特に月が綺麗だし。まだ残っている仕事を後回しにするには、十分過ぎるほどの理由だった。張り切りが過ぎたのだろうか、静かに腰を下ろすつもりが幻想的な月夜をぶち壊す、よいしょと威勢の良い掛け声。くすくす笑う髭切につられて思わず照れ笑いをこぼした時だった。知らぬ間に張られていた糸がぷつりと切れた。迷いを巡らすより前に、緩んだ言葉がするりと落ちる。

「私ね、伴侶なんていないの」

ここに来る前、伴侶となるはずの人がいました。結婚する約束をしました。両家の顔合わせをして、指輪も買って、式場の予約もして。挙式のひと月前がちょうど私の誕生日で、その日に入籍をする予定でした。家族も友達もみんな喜んでくれました。本当に幸せでした。誕生日の2週間くらい前だったかな、彼が突然別れを切り出しました。以前付き合ってた彼女が彼の子供を身ごもったそうです。その責任を取ると。二股かけられてたんですよ、ずっと。

「だからあの指輪にはもう、何の意味もない」

まっさらになった左手をかざして見せる。いまだ残る白い跡は髭切にも見えているのだろう。もういいよ、と優しく私の手を掴んで膝に降ろした。痛々しく見えてしまっただろうか。


「そっか、辛い話をさせてしまったね」
「全然、むしろ紛らわしいことしてごめん」
「あの指輪は?捨ててしまったのかい?」
「……ううん、小物入れの奥」


捨てられれば良かったんだけどね。未練なのか、情なのか、意地なのか、呪いなのか。自分でもわからない。外してしまえば何かが変わると思った。変わったのかは、まだわからないけど。いつか、変わるのかな?
独り言のような問いかけに、「主がそれを望めばね」と見透かすような言葉が返る。普段の言動からは想像がつかないほど、髭切には色んなものが見えているらしい。彼に話したのは間違い…いや、ほかの誰よりも正解だったのかもしれない。

「僕は千年も刀やってるから、大抵のことはどうでもよくなっちゃうんだけど…人間はそうもいかないみたいだから」

難儀だねぇ。人の形になった己をまじまじと見る。今でこそ人の様相をしているが、刀であって人ではない。人が抱える矛盾や弱さを彼らは肌で感じ取ってきた。それを分かち合うか首をひねるかはそれぞれの性分に委ねられる領域だ。髭切はどちらだろう。過剰な激励も同情もないが、少なくとも突き放すような冷たさは1ミリも無い。
そうだ、と何かを思いついた髭切は突然立ち上がり庭先に降りた。月明かりを纏うその姿はあまりに美しい。


「ねえ主、今度は僕と約束をしよう」
「約束?」
「うん、こうやって…」

髭切はくるりと月を背負うように振り向くと、私を真っすぐに見据える。

「前を向くとね、鬼退治が出来るんだ」
「鬼退治…?」
「うん、心の鬼を斬ってしまおうね」


勢いよく振られた刀は目前の空を斬った。思わず言葉を失う私の前髪を震える空気が揺らす。髭切に見えているであろう鬼は成敗されたのか、ほらね?と同意を得るかのように微笑んで鞘に収める。
鬼。心の中の鬼。怒り、悲しみ、拘泥する醜い鬼。ここに居て欲しいと、自ら望んでしまった鬼。


「ほら主、手を貸して」

髭切は私の左手を取り、するりと薬指を撫でる。

「ここが寂しいのなら、こうして僕が握っていてあげるから」

大切に、小さなひな鳥を包みこむようにそっと握られる薬指。約束だよ、と繰り返す。


「だからもう、振り返ってはいけないよ」








(18.12.16)


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