いつもより忙しない音を立てながら外の引き戸が突然開けられた。何事かと襖から顔を覗かせると、軽く息を切らした跡部が心底困っているといったような顔で立っていた。訳が分からずそのまま数秒固まったままでいた私にしびれを切らしたのか、跡部は「訳はあとで話す」とだけ言ってズカズカと中に入って来た。私の制止は軽く無視といったところで、その不機嫌な顔には似つかわしくない流れるような所作で上履きを脱ぎ揃えた。勢いよく襖が開けられて、表替えしたばかりの若い畳の香りが私たちを包んだ。


「…ここの畳こんなに新しかったか?」
「昨日表替えしてもらったの」
「それで独り占めってわけか、らしいな」


ククッと軽く笑って、跡部は座敷の一番奥に腰を下ろした。四畳半と決して広くない空間の中、彼の存在はかなり異彩を放っていて。辺りに漂っていた空気が跡部に取り込まれていくような気さえした。戸棚の奥からお気に入りの茶碗を出しながら、別に何をするわけでもなくただ黙って窓の外を見つめる跡部に目を移す。さすがの跡部景吾は和との融合でも絵になるらしい。そんな事実がしゃくに障った。


「…で、なんでいきなり茶道部に乗り込んで来たわけ?」


半分開け放たれたままの襖ごしに声をかけると、口を開かずとも面倒臭いと言っているのがわかる程のしかめ面をこちらに向けて来た。そんなに嫌なら入って来なきゃいいのに…てか訳は後で話すって言ったの自分じゃん。 関わらなきゃ良かったかも…そんな小さな後悔を茶碗と一緒にお盆に載せ、跡部の正面に座った。茶筅がコトンと小さな音を立てて倒れた。


「普通は菓子が先だろ」
「今日は部活も無いからお菓子なんて用意してないよ」
「気が利かねえな」
「…文句あるなら今すぐ出てってくんない?」


よほどここから出るのが嫌なのか、それ以上の憎まれ口を慎むとそのまま大人しく座っていた。 シャカシャカとお茶を立てる音が静かに響き、凛とした空気が自然と生まれる。ふと視線を上げると跡部がしっかりと私の手元を見つめていることに気付いてしまった。茶筅に籠る無駄な力がどこから生まれたのかわからなくて、私はひたすら焦ることしか出来なかった。


「追われてたんだよ」


ふんわりと細やかな泡が茶碗いっぱいに広がった頃、突然跡部が口を開いた。 またそれがどう解釈してよいのかいまいちよくわからないものだったので、驚いた顔をすればいいのか同情するような声をかければいいのか一瞬戸惑ってしまう。当の本人がばつの悪そうな顔をしている様子を見ると、 とりあえず面白がったりしなければ大丈夫だろうという打開策だけは見つかった。一呼吸置いて茶碗を跡部の正面に置くと、一瞬ホッとしたような顔を見せてから少し姿勢を正した。 別にこんな時くらい適当でいいのに。


「追われてるって、誰から?」
「うるせえ女共から」
「ファンクラブの子達?」
「…今日はその倍はいたな」
「ば、倍?!」
「移動する度に囲みやがって、邪魔くせえ」


舌打ちをしながらゆっくりと茶碗を2度回す。だから別に適当でいいのに。 育ちの良さというものはこういうところから自然と滲み出てくるのだろうか。茶碗に添えられた 綺麗な右手を見つめながら、そういえば今朝から女の子達にいつにも増して囲まれる跡部の様子を 何度も見かけたことを思い出した。今日ってバレンタインだっけ?とつまらないボケをする私に、たまたま近くにいた子が「明後日は跡部君の誕生日なんだよ」と教えてくれた。そうだ。忘れてた…わけじゃないけど、今年は日曜日なのか。察するに跡部がここに来た理由も、日曜日は休みだから今日の内にフライイングで我先にお祝したいと考えた女の子達が跡部を見かけては見境なく甘ったるい声を出しながら包囲してきた、そんな地獄から逃れるために最適な場所を探していたら茶道室を見つけた。きっとそんなところだろう。


「いつもみたいに生徒会室行けばいいじゃん」
「今日は意味ねえんだよ」
「どういうこと?」
「書記補佐の1年からさっき告られた」
「あぁ…」
「ったく…どいつもこいつも…」
「そりゃ災難だわ、誕生日はまだ明後日なのにね」


私が何も知らないまま話を聞いていると思っていたのだろうか。跡部は目を見開いて一瞬止まった。 それを誤魔化すかのようにお茶に口をつけると、綺麗に3口で飲みきって畳の縁の外へ置いた。 イヤミかと思ってしまうほど、跡部が何でもさらりとやってのける奴だということくらい知っていたのに。 無意識に見蕩れていた自分に気付いた私は慌てて跡部が顔を上げるよりも先に視線を大きく外した。 思わず放った咳払いは無駄に大きく響いて、いつまでたっても辺りに漂ったままだった。


「…やっぱり落ち着くな」
「何が?」
「茶室」
「まぁ畳は日本人の心って言うから…跡部も一応ちゃんと日本人なんだね」


遠まわしに「似合わない」と言ったつもりなのだが、意外にも跡部は上機嫌な様子で。眉間に皺を寄せることも舌打ちすることもなかった。窓から入る西日が畳をオレンジ色に染め、空の茶碗はキラキラと透き通る様に輝いた。それに気付いた跡部が茶碗をそっと目の高さにまで持ってくる。誰の作品でもない、特別高価でもない、部費で買ったお気に入りの茶碗。


「安モン」
「部活用なんだから当たり前じゃん」
「まぁ、嫌いじゃねえけどな」
「綺麗でしょ」


まるでガラスのように奥深く透き通る、乳白色の陶器。 氷のような透明感が幾重にも広がり、見つめているとまるで吸い込まれてしまいそうなほど繊細で美しい。


「まるで、跡部みたい」


暖かな陽の中で麻痺していく思考がすべてを緩ませる。思わず声に出してしまった心の声は、あまりに素直すぎて羞恥心すら湧かなかった。本当に、そう思ったの。


「なんだよそれ」


初めて見た柔らかな笑顔に、冷めない熱を感じた。再び熱を帯びた、という方が正しいか。


「一番のお気に入りなんだ、その茶碗」
「俺みたいだからか?」


勝ち誇ったように上がる口端に、つられて私も笑みがこぼれる。するりと落ちていく小さな謎は、私が茶碗を大切に していた本当の理由。膨大な数の茶碗から、たった1つこれを選んだ本当の理由。


「そうかもね」
「言うじゃねえか」


去年の10月4日は、何もしなかった。普通におはようと言い、じゃあね、と別れた。みんなが笑顔で伝えてる中、私だけが言えなかった。簡単な、たったひと言。真っ直ぐに伸びた想いを自分で捻じ曲げて無かったことにして、平気になって。誤魔化すことに慣れた頃、跡部が少しだけ近づいたような気がしていた。気のせいだと、また思いこんでいたのだけれど。


「ねぇ跡部、」
「あぁ?」
「今日がいい?明後日がいい?」
「何がだよ」
「誕生日のプレゼント」


まるでドラムロールが鳴るみたいに高鳴る鼓動が、今日のこの日の大切さを物語っていた。 真っ直ぐに跡部の目を見つめながら、まだ霧に囲まれたままのこの関係に光が差し始めたような感覚をほんのりと覚えた。跡部から受け取った茶碗は少しだけ跡部の熱が残っていて、まるで互いの手を取り合っているかのよう。


「バーカ、今日じゃ意味ねえだろ」
「2年分だからかなり重いよ?大丈夫?」
「望むところだ」


すべてお見通しといった風にニヤリと笑うその横顔は、私の期待をこれでもかとばかりに後押した。 色素の薄い跡部の髪が光に透け、見覚えのある輝きを放つ。 差し出された左手を掴みながら、ぼんやりと浮かぶ未来に絶えない縁を願った。











(2009.10.7)
(2018.3.16加筆修正)


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